速水 健朗:
文化系トークラジオ Life。6月 28 日の本放送を終えて番外編に突入しております。番外編前半を終えて後半戦をいきたいと思うんですが、今日は僕速水健朗のサブパーソナリティーがお送りしています。僕が司会をやってる代わりに今 charlie は論者として参加しています。
そして近内悠太さん、引き続き後半も参加しているところで、まず本編でできなかった話として近内さんの贈与論の話、引き続きいきしたいと思うので。charlie、皮切りでお願いしていいですか。
鈴木 謙介(charlie):
じゃ僕のターンからということで、今回ご著書『世界は贈与でできている』、読ませていただきまして、非常に興味深く読ませていただきましたけれども、うかがいたいことが2つあって・・・。
<音声トラブル>
・・・繋がりの形として思わず誰かから受け取っていたっていうことをあとで気付くというね。特に前半の大きなハイライトになっていて、後半はそれがより壮大な話になっていくわけですけれども。
思わず受け取っていた話っていうのに関連して――あとで説明しますけど――いろんな作品を挙げながら論じている話が面白かったので、これについてはどうですかねっていう話が聞けたらいいなと思っています。
1個目なんですけど、「贈与」っていう言葉、今回何かオリジナルというか、この人のこういうことから着想を得たとか、こういうのがヒントになってるとか、そういうのあったりするんですかね。
近内 悠太:
明確に「贈与ってこれだ」という定義っていろいろ見たなかで、特にモースだとか、レヴィ=ストロースあたりだとなかなか取り出しにくくて。
[本を]書いていくなかで最初は贈与っていうのは曖昧なまま書き進めていって、編集者の人から「まえがきにも書けるぐらい一言で贈与って説明できないですか」って言われたので、「じゃあお金で買えないものですね」って[答えました]。今さらに加えて言うと、「お礼を言いたくなってしまうもののすべて」っていうのが一番僕の感覚としてやっぱり近くて。
お礼を言いたくなってしまうもののすべてってことは、あくまで贈与の受取人側ですよね。差し出し側がまったくアンコントローラブル。いろんなモースだとかの贈与論を見たときには、今の定義で明らかにそこまで強烈な齟齬というのはないだろうなっていうので、「贈与って何ですか」っていうときに、ああいう言いかたを採用したっていう感じですね。
鈴木 謙介(charlie):
今、マルセル・モースという人類学者の話が出てきて、モースというのは贈与論という本を書いている人ですけれども、彼の言ってる贈与っていうのは近内さんもおっしゃるとおり、貨幣で交換できるものと対極にあるんですけれども。ご本のなかに出てこない話で言うと、「呪術(じゅじゅつ)性」ですね。もらった物の――簡単に言うと――重さみたいなものの話がやっぱり鍵になっていて。
要するに、手編みのマフラーってのはただのマフラーなんだけど重いっていう。その重さっていうのを文化人類学的には呪術性だと考える。なんかまじないの力がこもっていると考える。手編みのマフラーは「もらって嬉しい、ありがとう」ってこともあるけど、「重!」ってなることもあって。
このときに2つポイントがあって、贈与って今回関係性の話をしてるけども、間に挟まってる物の話が出てこないっていうのと、その「手編みのマフラーが重っ」という話をしてましたけれども、私たちは手編みのマフラーをプレゼントしているだけではなくて、お金で買った商品をプレゼントとして渡すこともありますよね。
しかもお金で買ったプレゼントの金額に「ありがとう」を感じる人も――いやらし意味じゃなくて――「こんなに高いもの、頑張っでバイトして買ってくれたんだ、ありがとう」みたいことってあったりするじゃないですか。ここで言ってる贈与っていうのは気持ちの問題として捉らえるであれば、贈与っていう言葉で語ったほうがいいのか、「ありがとう」って言いたくなる関係性を繋ぐとか、そういうレベルの話なのかどっちにフォーカスしている話なんだろうなっていうのを1個思ったんですよ。
近内 悠太:
経済的なことはぶっちゃけそこまで想定しなかったので、物も含んだもっと抽象物として関係性っていうほうが僕はあの本のなかでは強いですね。
物に付帯する呪術性もそうですけども、物に付帯する「物語性」だと思うんですよね。マフラーを買ってくれたっていうときに、売り物のマフラーがどうすれば一点物の「この人から私に贈与されたマフラー」に変わるかって言うと、「何々のマフラーってもいいと思うんだよね」ってたった一言言ったのを恋人とか友人が覚えていてくれたっていう物語性だとか、些細なものにちゃんとこの人はシグナルを受け取って、私に「これでしょ」っていうふうに言ってくれたっていう。そこの物語性に僕らは突き動かされるところがあると思うんですよね。
鈴木 謙介(charlie):
うんうんすごい分かる。という話をしたのは何でかって言うと、最近「別れてメルカリ」って話よくあるじゃないですか。恋人からもらったプレゼントを別れたので即メルカリで売る。これ簡単に言うと「突き落とし」ですよね。「別れた彼氏がまだここにいる気がするかも。全部手放したい。」っていう話。これは何となく分かる。
最近聞いた話でめちゃめちゃ面白かったんのが、「私もある」って話を結構聞いたので、そうなのかと思ったんですけど、恋人からもらったプレゼント、なくした壊した。ので、即メルカリで同じものを買ったって。これ、僕事実だけそういう話を聞いたと伝えますけど、近内さんの贈与論的にはどう解釈します?
近内 悠太:
それは何で買った? なくしちゃったとか、そのやっぱ物として欲しかったから、残しておきたかったから? 思い出?
鈴木 謙介(charlie):
その解釈はもうお任せしますよ。これすごいなと思って。
近内 悠太:
俺はだからこんまりさんが出てきただろうなと思うんですよね。
僕らは資本主義のなかで物をいっぱい溜め込んでしまうわけで、買うもそうだし。でも買うってやっぱり「あの場所で買った」って思い出がどうしても含まれてしまう。自分が買った物でも、思い出みたいな余剰分が含まれてしまうので捨てにくくなるんですよね。
それを呪術的なものを断ち切る、陰陽道のような能力を発揮するのがこんまりさんの「捨てる技術」みたいな。あれが資本主義ゴリゴリのアメリカで日本よりも異常にフィーバーしたっていうのは、物がいっぱい買ったり溜め込むことによってがんじがらめになった関係性みたいのを断ち切るっていうような人として、こんまりさんっていうのがたぶんアメリカ人の目にはそう見えたんじゃないか。
物っていうものが物語性なり思い出みたいなものが付帯してしまうが故に、ただの物ではなくなって、ある種それにがんじがらめになって捨てられなくなる。捨てられなくなるだけが問題じゃないと思うんですね。捨てられないが故に、呪術的に絡めとられてるっていう側面があると思うんですよね。
メルカリはちょっと分からないです。
鈴木 謙介(charlie):
僕はいろんなパターンがあるとは思うんですけれども、ひとつ思ったのは、「それが気遣いなんだよね」と思ったんですね。
物を何かもらった。でもそれは既製品でお金で買えるものである。それをもらったということによって生じた気持ち――嬉しかったとか――っていうのは、もらった物を捨てて捨ててもなくしても、そして同じ形のものをお金で買っても、別に消えないと。今回その近内さんの贈与論の一番面白い点は、物を介在しないで贈与って言ったことなんですよ。
これまで私たちの常識によると、「えっ、メルカリで買い直したら気持ちごと消えちゃってるじゃん」って思ったんだけど、「いやいや消えないですよ」っていう前提からスタートしてるからすごいユニークだなと思ったって話なんですよ。
近内 悠太:
結構僕そこ意識がなくて。なぜかっていうと正統のある贈与論から始まったわけじゃなくて、正直に言うと内田樹さんが書かれてる意味での贈与から始まったんで。
内田さんは結構ずるい言いかたで、「たまたま自分のところに来た物を次の人にパスするんだよ」って、「パス」って言いかたで贈与だっていうふうに言ったりする。パスをするってボールとかだと物体性的なものがあるんですけど、内田さんの本のなかで言ってるのは、物だけに回収されてないから贈与は物を介在しない。その物語性・関係性っていうのが贈与の一番の本質的なとこだったので、物か、物じゃないかっていうのは僕のなかで意識はなかったですね。
鈴木 謙介(charlie):
なぜこの話を先に振ったかと言うと、物をパスしていって関係性がっていう話のなかで冒頭に『ペイ・フォワード』の話が出てくるんですよね。
『ペイ・フォワード』という作品の構造に触れながら贈与の話をしたときに、誰からも何ももらってない人間が出発点になるとその人は死ぬしかない、という話をしていて。本のなかでも供犠(くぎ)――生贄(いけにえ)ですね――の話が出てくるんですけれども、哲学的にも遡るとジョルジュ・バタイユ、そしてモーリス・ブランショ、ジャン=リュック・ナンシーっていったあたりの人たちがバタイユの影響を受けながら、この供犠について語ってるんですけれども。
共同体ってむしろそういう最初の生贄みたいな人が祭り上げられて、そして祭り上げる集団の熱狂のなかで集団の関係が固まっていくっていう、そういうトラウマ性ですよね。「私たちはあの人を死なせてしまった。そのことに報いることはもう何をやってもできない。もう何もお返しできない。」っていう悔恨の念が言わばそのあとのパスを回していく。そのことによって共同体が生まれていくっていう話があって。
僕自身はこの話を別の本で共同体の負った原罪みたいなイメージで書いているんですけれども、今回、「ドネーション」ですね。贈与って普通「ギフト」って言うんだけど、どちらかというとこれドネーションですね。ドネーションによって渡ってきたものって、まわり出せばどんどん渡っていくんだけれども、2つの問題があって、それって結局最初後悔から始まってるからいずれを忘れられてしまう。「あの人を死なせてしまった」って覚えてる人がいなくなっちゃうっていう問題があって。
この贈与によってまわっていく関係性っていつまでもパスがまわっていけばいいんだけれども、どこかで初発の力を失って潰(つい)えてしまうことがあり得る。それってどうするんだろうっていうのが1個と、そしてもう1個――さっきのネット炎上が続く話に似てるんですけれども――というわけでそれを忘れないために私たちは次から次へと生贄を探して血祭りに挙げてしまうというところも、共同体の原罪として常にあるような気がしていて。
贈与によって繋がっていく関係性って突き詰めていくとそういうこわいとこ持ってるっていう話はもちろん書いてらっしゃると思うので、ある程度は織り込み済みだと思うんですけれども、そのこわい部分はたぶん本をじっくり読まないと分からないかもしれないので、そのへんも掘り下げて聞きたいなと思ったんですよね。
近内 悠太:
今のドネーションの系譜みたいなものの危うさってさりげない話だったんですけど、主語が「私たち」だったんですよね。そこが僕が贈与論のなかで一番危険だと思ったところで。
「私たちは与えられていたんだ」っていうのが非常に危険で、だからどうするかっていうと「私自身が与えられたんだ」って一人ひとりが気付いてもらう。本のなかで後半想像力の話をしたのは、小松左京の話を使って「これは与えられてるものですよね」で若干強制してしまってるところはあるんですけども、一人一人が個人として「これは私はこれを受け取っていた」って一人ひとり気付いてもらう。というのがまず1点。
であと、最初の犠牲者を記憶すること。目の前で犠牲者を見てしまうのって、キリスト教だと思うんですよね。パウロたち、使徒たちはそれを目の当たりにして、それは聖書という形で残していている。宗教性って聖書の存在って大きいと思うんですよね。教えというものが物語化されていて。しかもこの世界を説明しようとするという意味ではよくできた物語性があそこにあった。
僕が小松左京を書いたのは、不安定な世界なのに普段誰かのギフトとかドネーションによって維持されているものをエンターテイメントとして描いてるから。その起源を忘れず、いい物語を紡ぎ続けられている点でキリスト教は成功している。世界三大宗教に上り詰めたのは、その構造も入ってるし聖書という物語性っていうのもあったからって思いましたね。
鈴木 謙介(charlie):
なるほどね、キリスト教の話題が出たのがキリスト教には恩寵(おんちょう)っていう概念がありますよね。日本語で言うと「ありがたい」ですね、文字通り。
神様がなしたとしか思えない奇跡でこの世界は出来上がっているというのを、近内さんは本のなかでお皿のなかにボールがあるのと、伏せたボウルの上にボールが乗っている絵で説明していらっしゃったと思うんですけれども、一人で気付くっていうときに大事なポイントだと思っていて。
本のなかではお皿の丸いボウルのなかに1個球体が入っている。そうすると外側のボールが傾いいたら、ボールはグラグラしてしまうわけですね。でも普通にしてると安定してるからちょっと不安定になったことが普通じゃなくなった、正常の状態を覆された、何か迷惑だ、みたいな感じにどうしてもなってしまう。でも伏せたままボウルの上に球体が載っているような世界だとしたら、上に乗っかって崩れないのは超ありがたい、奇跡じゃんっていうことになる。
問題は不安定なものが奇跡的に成り立っている。そしてこれは誰かのおかげであるという認識に<個々がたどり着く>ってめちゃくちゃ難しくて、このめちゃくちゃ効率の悪い難しい問題を解決するために私たちは社会的な儀式っていうのを作って「みんな一斉に同じように感じろ」っていうふうにやってきた。それをあえて集団を外して「個人で気付け」っていうのって可能だと思います?
近内 悠太:
それ、とっくに解答が僕のなかに用意していて、それを真っ向から質問されるの初めてで嬉しいですけど、「だから僕教育やってるです」ってずるい解答があるんですよ。最も迂遠(うえん)な道筋を通る。だから僕は教育に希望を持っちゃってるんです。
鈴木 謙介(charlie):
いい投げかたをして、いい返しかた・・・。仕込み一切ゼロですよね。
近内 悠太:
嬉しかったですね。「たぶん用意してるんでしょ、どうせ近内さん」ってみたいな感じでニヤニヤしてもらって。俺これ言っていいの、初めて綺麗に言えるぞってすごい嬉しかったですね、今。
鈴木 謙介(charlie):
教育という視点のなかで今教えてらっしゃる教えの形っていうのが、例えば小中高大学の専任の教員になって、学校行事を取り仕切って、指導要領に従って、みたいなそういうこととは違うところでご自分でやられている教育実践でそれをやろうとするというところが、「教師になる」と「教育をやる」ではちょっと意味が違うので。「教育をやってるんですよ」っていうお答えで、すごく納得したところはありますけれども。
手応えとして自分が贈与の「ありがたい」を作る側にいることによって、自分が実践者として見た場合にはどんなふうに自分を評価します?
近内 悠太:
当然それは教育として間違ってるとかいう人もいると思うし、全然僕と違う活動をしている人もいると思うんですけど。教育って完全なる分業だと思うんですよね。生徒が僕の話にフックする生徒もいれば、僕の話に全然フックしない生徒もいる。僕があんな教育者、何が面白いんだと思う人の言葉にフックする生徒もいる。それって結構なばらつきなんですよね。
僕からしたら生徒たちがフックして、今まで自分が思いもしなかったようなことができるようになることさえ起これば、何でもいいと思っていて。僕は僕なりにやってるんで、「でもこういう教育もありますよね」って言われたら僕はそれを美しいとは思わないので、僕は僕で勝手にやってるのでいいじゃないですかっていうことです。
鈴木 謙介(charlie):
今日お話を何度かうかがっていて僕自身も自分の学生に言ってきたりだとか考えてきたことっていうのを結構言語化してもらったなという気持ちがあって、1つにまとめて1つのことをしているわけではなくって、総当たり戦みたいなもんだと思っていて。
個別にやっている人たちが個別にもがいてる生徒とマッチしていったときに、事故も起こるし失敗もするし、「自分じゃないほうがよかったな」ってなることも当然ある。一方で「自分じゃないとここまでできなかったな」ってなることもあって。自分がうまくできなかったって人はそのあと誰かがその人を拾っているかもしれないし、その人が失敗の経験から「自分はそういうことをするような先生にだけはならないようにしよう」と思っているかもしれないし。
世界にたくさんの人がいて、たくさんの相手がいて、何億対何億みたいな組み合わせのなかに贈与の話を入れていくと、最初におしゃっていたような、個で気付くとか個で受け渡してしまっているとかっていう話のスコープが少し広く見えてきて、「私が受け渡さないとダメなんだ」とか、「私は受け取ったのに返せないとダメなんだ」っていうと、本のなかに出てくる「自殺するしかないんだ」っていうエピソードの話になってきてしまうので。なんかそのあたりのスコープをちょっと広げていくと面白いかもなというふうに思ったりしたんですが。
というような感じで、著者の魅力を広げる会みたいなものをやりましたが、僕はあと4、5分ぐらい出てますけど。
速水 健朗:
じゃあリスナーのかたがたへの贈与の時間を発表いたします。めろん先生の新刊が2冊『キッズファイヤー・ドットコム』の文庫版、そして『パパいや、めろん』、子育てエッセーの本。こちら本放送のなかでプレゼント希望のかた、メールくださいってお届けしましたけど、発表いたします。ラジオネーム・淑女見習いさんにこの2冊まとめて当選いたしました。
そしてですね、そこに便乗した僕と矢野君と大谷能生の3人で増補版『ジャニ研! Twenty Twenty』のほうも、ラジオネーム・ヤマ学校のヤマケンさんに当選しました。お送りします。贈与いたします。
プレゼント発表でしたが、charlie はもう山を下りなきゃいけないの?
鈴木 謙介(charlie):
赤坂です。山ではないです。
速水 健朗:
あ、そうね。いつも山だからね。
鈴木 謙介(charlie):
今回は山ではないんです。たっぷり司会のお仕事を預けて――贈与じゃなくてね――預けて好きにしゃべらせていただきましたけれども、そろそろこのへんで失礼したいと思っております。第3弾やりたいかたはぜひそのまま続けていただければと思います。
速水 健朗:
もう今日は結構いい時間なので、最後何だろせっかくだから後半から入ってきた人たちもいるのでみんな何か一言ずつ言ってなんかする?
塚越 健司:
じゃ僕1ついいですか。1つ贈与ということで、海外で結構何年も Zoom みたいなもので教えてる人から聞いた話で、「これいいな」と思ったんですけど、一直線で Zoom のギャラリーになるとみんな偉い人も新入社員もみんな一緒だと思うんですけれども、1人ずつ当てていくと、つい空気読んでなかなかしゃべれない、特に新入社員の人は。そのときにどうするか。「何か意見がある人?」ってなったときに3分まず待つと。で、全員チャットに書けと言うんですよ。3分後にいっせーので書けっていうんですよ。そうするとみんな空気を読むから、書くは絶対書くんですよ。書かなきゃいけないとプレッシャーを与えられるから日本人は書くらしいんです。
でも書く内容はその瞬間にやるんで、忖度(そんたく)いらない。自分の本当の意見が出るってなって。これは僕大学の授業とかで結構使える気がしましたので、いいと思います、どうでしょう。
永田 夏来:
すごくいいと思う。やってみますっていう、ただそれだけのリアクションです。
塚越 健司:
結構いい案だなと、僕も聞いて「うわっ!」と思ったので、僕授業でもやるんですけど会社の会議とかでも結構使い道がします。
永田 夏来:
まだやったことないのでいいと思います。
速水 健朗:
ここにいる人、大半ね、僕以外先生ですもんね。いろんな先生。倉本さんも新米先生ね。
倉本 さおり:
そうなんです、新米教師を法政大学でやってるんですけれども。パソコンの充電が切れてこう授業中にあたふたすることもありつつ。
私最近書店イベントをオンラインですることが増えたので、いろんなオンラインで参加してくださてるかたにちょっと DM でアンケートを取ったりとかして、「コロナ以前と以後で本屋さんに行ったりとか、ネット書店で買う機会とかって変わりましたか」で「変わった場合、その選ぶ本とかも変わりましたか」みたいなことを聞いたんですよ。
そしたらやっぱり「変わった」っていう答えが返ってきて、書店でブラブラしていたときは選ぶ基準が良くも悪くも自分だったんだけど、ラジオとかオンラインとかだと他の人のおすすめをダイレクトに浴びる感覚でお店のポップに近いかもしれないって答えが返ってきて、「あ、そうなんだ」ってすごいちょっと意外性があって。
であれば、このやりかたっていうのは共存できるなというふうに思ったんですよね。実際そのかたも最近の使い分けで本の情報をオンラインとかラジオでゲットしてから商品としての本を書店でゲットしに行くらしいんだけれども、書店での滞在時間を短くしないと密になっちゃうから、お客さん同士で気を遣い合っているっていうことみたいなんですよね。
とは言え、本の情報には繋がっていたいからオンラインとか、ラジオでリスナーさんとかのリプライとかも気にしつつ、本を選んでいくみたいな感じらしいですよね。単に Amazon で注文して終わりっていうだけではなくて、そういう使いかたもできるだなっていうふうに思いました。
速水 健朗:
なるほど。他のみなさん大丈夫でしょうか。そろそろじゃ番外編後半、締めたいと思います。これをもって3部突入なしということで、みなさん遅くまでお疲れ様でした。
〔外伝 Part 2 はここまで〕