出演者(登場順)
速水 健朗(はやみず けんろう)
倉本 さおり(くらもと さおり)
塚越 健司(つかごし けんじ)
宮崎 智之(みやざき ともゆき)
鈴木 謙介(すずき けんすけ、charlie)
永田 夏来(ながた なつき)
矢野 利裕(やの としひろ)
野村 高文(のむら たかふみ)
近内 悠太(ちかうち ゆうた)

* * *

速水 健朗:
文化系トークラジオ Life、6月 28 日(日)の本放送を終えてここから番外編に突入したいと思います。

ここから参加するのは倉本さおりさん。

倉本 さおり:
よろしくお願いします。

速水 健朗:
塚越健司君。

塚越 健司:
よろしくお願いします。

速水 健朗:
そして宮崎智之君。

宮崎 智之:
よろしくお願いします。

速水 健朗:
あと残っている近内悠太さんも引き続きお願いします。野村高文さん、よろしくお願いします。charlie は今日[の外伝]は進行ではなくて論客として参加するという。

鈴木 謙介(charlie):
ちょっとしゃべりたい!

速水 健朗:
そして引き続きの人たちも、矢野利裕君います。永田夏来さんも引き続き。

永田 夏来:
はい、よろしくです。

速水 健朗:
それでは本編のほうで読めなかったメールをフォローしていきたいと思うんですが、倉本さんからでいいですか?

倉本 さおり:
はい、ありがとうございます。ラジオネーム・ゴシャさんのメールなんですけれども、「ひさびさの会社への出社前、緊張して寝付けておれず、今 Life をめずしくリアルタイムで聞いており、臨場感バッチリです。」ありがとうございます。「私は福岡に拠点を置く女性アイドルグループ・HKT48 を推しています。2月から新型コロナウイルスの影響で各地で行われてる握手会(東京、大阪、福岡)がすべて延期しております。三密を避けるために運営側が提示した打開策としてオンライン握手会を開催するというものでした。推しのアイドルさんとコミュニケーションが取れる喜びとアイドルやオタク仲間の安全や健康が守られるならしかたないことだと考えています。しかし気付いたことがあります。人にはよりますが握手会はオタク同士のオフ会的なコミュニケーションが多く成り立つ空間でもありました。推しとの握手を待つ 30 分、1時間、若い子も年配のかたも関係なく推しへの愛とか中心にいろんなことを楽しく会話していました。そこにお土産や生写真の交換はあるけど、お酒もなければ立場や性別も関係ない、ただ尊い時間でした。匿名性の高いオタクの Twitter だけでは今後オンライン握手会のあとにいきなり Zoom などでオフ会をするのはかなり抵抗のあることであり、またオタク仲間との高揚感溢れる握手会後の会話の臨場性は失われるんだなと寂しさを覚えました。この感覚は現場に通い続けると分かるし、通わないと分からない感覚だったんだなと感じております。自分や周りの安全第一だと考えています。でも全国から集まるオタのみんなに会いたいなと考えてしまう今日この頃です。」

このメールなんですけれども、私も推し活をしているので、すごくよく分かるんですよね。最近アーティストのかた、アイドルのかたって、オンラインでライブを開催してくれるんですよね。オンライン・ライブとかにも参加したりとかしてるんですけど、その一方でコロナの影響が出る前って、ライブをライブビューイングで映画館で放映したりとかしていたんですよね。そのライブに参加しているときとオンラインで参加したときと考えたんですけど、オンラインもたしかにそれはそれでプライベート感があっていいんですけれども、両方とも映像を通して推しの映像が流れてくるんだけれども、やっぱりライブって一体感があったなって思っちゃったんですよね。これ矢野君もうんうんって言ってるけど、どうですか。

矢野 利裕:
ライブ問題はありますよね。ジャニーズがネット解禁しつつあったところにこのコロナの流れが来て、そのときにあれはドームで手洗いとかの啓発も含めてやって。それはそれでジャニーズはまさにリアルタイムの臨場性を大事にしていたところをネット解禁して、新たな臨場性にっていう流れもあるにはあるんですけども、やっぱりファン同士の横の繋がりとか、コンサートだから発生するアイドル感みたいなものとかあって。それがどうなっていくのかっていうのは今後の行方としてちょっと気になるところではありますね。

倉本 さおり:
特に推し活をしてる人ってグッズとかを集めたりするから、グッズが被っちゃったりとかしたら会場でオタ同士で交換したりとかってあるんですよね。それができないのって映像を通じて推しを楽しむ場であったとしても、そこに共有する空間があるかないかっていうのは結構身体性って大きいんだなと思いました。

速水 健朗:
ライブはちょっと永田さんにも聞かなきゃな。

永田 夏来:
はい、永田夏来です。メール読んでもいいですかね。会場でライブを見ることですっていう話ですけれども。[ラジオネームが]タニモトさん。「今回のテーマで対面が必要なことというか望んでいるのは会場でライブを見ることです。いまだコロナの感染要因等が不明で人が多く集まることが危険視されています。そのため音楽家のかたがたはリモートで無料・有料のライブを放送されています。オンラインの演奏も素敵ですが会場で聞いて始まる前や終演後に自分以外のかたがたと話ができるあの時間が良かったのだなとしみじみ思います。また反対にリモートの良いところは会場に行けなくてもライブが見られることです。特に地方在住の私はライブ会場への行き来も一苦労です。スケジュールが合えば夜7時から東京の○○さんのライブ、夜 10 時からは海外の○○さんのライブを見ることもできます。有料ですとアーカイブを一定期間残されることもあり、当日は用事があって見られなかったライブを別の時間に見られることも可能です。そんなとき、『そうか、変わっていかざるを得ないのか』と考えさせられることがありました。雑誌の『料理王国』6・7号の特集に『食に関わるすべての人へ。コロナ頃の時代を生き抜くための実践ガイド』での編集者の若林恵さんと平山潤さんの対談『食べると作るのフラット化が加速する』でした。――生産側(料理する人)にお金を払って経済をまわしていくというモデルが立ち行かないのであれば、家での料理は食べることより料理することがエンターテインメントだね、という前提でサービスを考えたりしないと。料理を作っている人にとって店を構えることでデリバリー可能なものもある(可能でないものもある)。人や空間で成立する 20 世紀的な快楽がどこまで残るか。『みんなでわいわいやって楽しいよね』みたいな話自体が過去のものになる。これから孤独というものをいかに生産的に楽しむか――ということでした。まだ 20 年ぐらい先だろうとも話されていました。何でもかんでもじゃないけど、先ほど書いたようにライブを聞いて他の人と語らうことを会場でできたらいいなと思っています。」

だそうで、ちょっと論点多いんですけど、話をライブに戻すと、ほとんど私も同じ感想で、リモートでもいいですよ。十分な部分はあると思います。他方で、行って、あーだこーだしゃべったりっていうこともまた大事なんだけれども、たぶんライブに何を求めているのかっていうことがずいぶん違うんだなっていうことが分かったっていうことじゃないかなと思いますよね。

速水 健朗:
もうちょっとライブね、もう1通。この人はめちゃめちゃ悩んでるっていう人。ラジオネーム・おかひじきさん、30 代、女性のかた。「ついに推しバンドが来月、有観客ライブをすると発表していました。6月に入ってから毎週配信ライブをやっていたのですがついに来たかという感じです。とはいえ1公演での動員は半分以下で、1日に公演の抽選配信も同時にやるとのことで『無理して来ないでね』とのこと。現在行こうかどうしようかめちゃめちゃ悩んでいます。音楽や芸能活動の新しい形として配信ライブをそれなりに楽しんできましたが、観客ありでやるって言われたら『無理して来ないでね』って言われても行きたいに決まってるじゃないですか!! 会場が私の居住地から新幹線で3時間ぐらい他県なのですが、長距離移動やライブハウス内での過ごしかた、いくらコロナ対策万全といえ不安は残ります。同居している家族に反対されるかと思いきや『行きたいなら行けば』と言われてしまい、フリーランスだから職場に反対されることもなくいっそのこと行政から開催中止を要望してもらえないだろうかと思ってしまいます。考えすぎ。『行きたいですよ』と言う友だちとの飲み会はリモートで十分だなと思っておりますがライブはどうしても行きたいです。生のライブは配信では再現できない臨場性がどうしたってあります。」

という、おかひじきさんね。永田さんはライブじゃなくてもリモートでも、何を求めてるのか次第って言いますけど、やるか、やらないかで「やる」って言ったら行きたいですよね。

永田 夏来:
でもね、私この話いろんなとこでしてるんですけれども、「コーネリアスのライブで踊ってたら怒られた」問題っていうのがあってですね。私、小山田圭吾さん大好きなんで、めっちゃライブ行って、かなりいいところに陣取って、ただこうやって――こうやってて[ラジオを聴いている人には]見えないだろうけど――ただゆらゆら踊ってただけなのに、めっちゃ横の人からガンガンにらまれて、周り見てみたらたしかにみんな直立不動で腕組んで聴いてたんですよ。だから「ああ、違ったんだな。すみません。」って思いましたけど。やっぱりライブで踊らないで腕組んで聴いてるんだったら配信でもよくね? って思ったりもするよね。

宮崎 智之:
宮崎です。今話を聞いてて思ったのが、音楽のライブとちょっと近いのはスポーツ観戦だと思うんですよね。今プロ野球って無観客試合をテレビで放送してるわけですけれども、考えてみればライブでやってるものを野球とかサッカーは画面越しで我々は見るのが慣れてたわけですよ、もともとね。プロ野球にしろ J リーグにしろ日本代表選にしろ、そもそも僕ら現場に行かずにサッカーとか野球って楽しめたはずなんだけど、無観客試合になると見ててめちゃめちゃつまらないっていうか――これ僕の個人の感想なんですけど。僕らがテレビ越しに感じていたのも例えば野球だったら鳴り物で応援してる感じとか、球場がざわざわしてる感じとか、サッカーでいうと国際試合だったらワーッて国同士でいろんな人が盛り上がってる映像とかも、画面越しで見る側も臨場性が大切だったんじゃないかなっていうふうにすごく思うんですけども。

音楽も生配信でテレビとかで配信するってことは、まあないじゃないですか――あるかな、紅白歌合戦ぐらい? 例えば紅白歌合戦を無観客で配信されたら結構違和感があるじゃないかなってちょっと思ってて。臨場性って言っても、その先にある臨場性みたいなのも画面越しで感じてたんだなっていうことが無観客試合を見て思いましたね。どうですか、スポーツ観戦のこととか、速水さんは。何かあります?

速水 健朗:
うんとね、それなりに今ライブをやったりスポーツの観戦をやったりするときに、違和感っていうよりもちょっと次の段階に行っていて。観客が応援しているところをアーティストに届けたいという思いが強くて、選手の人たちどう思ってんのかなとか、そっちが気になるっていうか。

俺は普通にサッカーは別に観客いなくても、いても、いつも見てるのは変わらないだけど。いつも観客席で応援してる人たちは自分たちが応援してるのを選手に届けたいという思いがすごい強くて、どうなんだろうって正直思ってるけどね。

宮崎 智之:
僕はサッカーとかでピンチとかになったら、ピンチになった側のサポーターが悲鳴を上げてるみたいなものも含めて結構テレビで臨場性を楽しんだような気もする。

速水 健朗:
今日のテーマは暴力性みたいな話だったので、臨場性と。選手たちは嫌とは言えないじゃん。「観客があったほうがいいよ」って言うけど、「いらねえよ」って思ってる人たちは何も文句言えないよね、ファンにはね。ファンとの非対称性みたいな話もちょっと考えちゃうな。

永田 夏来:
いいですか、永田夏来ですけど。ちょうど今日、[大阪の]豊中でフェス的なイベントがあって、野外の音楽場にお客さん入れて音楽やってるんですけど、事前にコロナ接近の追跡のためのアプリを全員が入れないといけなくて、住所・氏名とかも登録しないといけなくて、それを登録しましたよっていうのを画面で見せて、体温を測って、ソーシャル・ディスタンスを保った状態で1つ置きぐらいに客が座って、それでライブをやったらしいですけど。そこまでしてまで見るのって何かそういうことなのかなって思っちゃうね。やっぱりなんかみんなでワチャッと見て、「ウエ〜」ってやりに行くわけだから。そんな状態であってもお客さん入れてやるっていうことは何事にも代えがたいだとまで言えるのかなっていうのはちょっと思ったりもして。

だから単になんか客を入れればいいだとか、無観客だからどうだっていうことからちょっと話はもう少し進んでるかなっていう感じは私もしますよね。

倉本 さおり:
倉本なんですけど、ちょっと前に韓国のプロ野球でバッターボックスの背後のところのいつもテレビに映る部分のところに、ぬいぐるみをブワーって並べるっていうのがあって、日に日にそのぬいぐるみが増えていくっていうあの様子が Twitter で流れたんですけども。日に日にぬいぐるみが増えていくっていうのもある種の臨場感でお客さんが楽しんでたって話を聞いて、そういう形もあるんだなというふうに思いました。

速水 健朗:
うん。charlie が笑っているかな。

鈴木 謙介(charlie):
この問題に関しては「代替性」とか「過渡期」とかいろんな言いかたがあるので、現時点で判断できることはそんなにはないですけれども。ただ基本的には客商売なので、それでもいいという人が出てきたり、そこに新しい楽しみかたを発明してきたりっていうことによって今後も変わってくるでしょうと思います。

宮崎君が言ってた話に絡めて言うと、社会学のメディア研究のなかでは、スポーツ中継っていうのがスポーツのあり方っていうのをメディア化してきたっていう研究があるんです。簡単に言うともともとスポーツってのは体育ですから人に見せるものではなかったんだけれども、野球っていうものが観客を入れて始めるようになり、そして東京ドームができたぐらいからバックスクリーンというデカいスクリーンが付くようになり、そこにさまざまな情報が同時に表示されるようになって空間の解像度が上がるわけだよね。

さらにそれが行き着くところまで行き着くと、ライブビューイングのような形で画面越しで見ていても、一緒に臨場感を味わっているお客さんとスポーツバーで盛り上がるって話になるから、「これ結局、スポーツやってる会場じゃなくて都市全体がスタジアムになるってことだよね」っていう研究がメディア研究のなかであるんですね。

今起こっているのは、その先、つまりじゃあ結局画面で見てるのも一緒だし、観客の息遣いや臨場感というのを――僕例えとしては『サマーウォーズ』って言ってるんですけど、『サマーウォーズ』のあの最後のように――「みんなが応援してるぞ」という声が聞こえたり、あるいはそういうリアクションが臨場感のある形で見られるようになったら、お家にしてもスタジアムになるかもしれないし、「これじゃ嫌だ」ってなるかもしれないし。僕らのマインドと技術の追っかけっこのなかで何か形は決まっていくんだと思います。

ただこの話、僕もなりがちなんだけれども、やっぱり見たい人とかあるいは実際にそこにお金を払って何かをしている人のマインドを否定するのは僕は違うと思っていて。何かの形でも見たい、代替でも見たい、あるいは今テーマパークなんかもキャストさんとものすごい距離を取って、あるいはキャラクターとも触れ合うこともなくテーマパークで遊ぶ。ジェットコースターは声を出すなってことになってるわけですけれども、それでも行きたいっていう人のマインドはどうにもならないので。それは今現段階で居酒屋で大声出してお酒飲んでる人と一緒で、どうにもならないので、それについてコメントとしてもたぶん何も変わらないだろうなと思うんですよね。だったらそれに対してどういうあり得る解があるのかっていうのを技術の人たちだったり企画の人だったりってのはこれから考えていくことなのかなとちょっと思ったりしています。

速水 健朗:
もちろん見たい人は見たいだけど、俺が思うのは選手の人たちがファンの応援を聞きたいかどうかはまた別で、彼らが――。

鈴木 謙介(charlie):
スポーツ選手に関しては特に若い人って早い段階からファン対応とかファン・コミュニケーションっていうのも込みで教育されますよね。個人競技であればテニスなんかはもともとマスコミ対応なんかがやっぱりスクールに付いてたりもするし、チーム競技でも――特に大学スポーツなんかをやってる若い子たちを見てても思いますけれども――チームを盛り上げてもらうっていうことと競技はセットなので、必ず「チームを応援してください」っていうコミュニケーションと、応援をもらって力になったっていうファンへのフィードバックみたいなものがいわばショービズの一環としても入っちゃってる感じはあるので。

競技に集中したいっていうタイプの競技者は当然いるとは思うんですけれども、お客さんを入れてるチーム競技に関してはお客さんと一体になってそこでチーム自体も盛り上げてもらう、サポートしてもらうっていうふうになってきてるのかなと思いますけど。やりやすいかどうかは別ですけど。

速水 健朗:
けど、ライブ会場とかでさ、何万人のお客さんがさ、自分がペンライトを振ってるのを見て相手に届くっていうさ、その負荷とかさ、ネットのさ。正直キモイんだよねっていう。

その話はずれるのでこのテーマ、次に行っていいですか。次、野村さん、メールをさっき[本編で]読み読めなかったやついいですか。

野村 高文:
はい、1つ読みますね。タカハシトシアキさん、31 歳、男性、千葉市のかたから。「コロナ以降の臨場性というテーマでパッと思いついたのは Twitter のスピードが速くなったことです。コロナ以降いろんなイベントがオンライン上で行われるようになり自宅待機によって新規参入者が増えたりハッシュタグによって社会運動が行われるようになったり、とにかく速い。特に文春砲が炸裂したり政治家が記者会見したり性犯罪や内部告発などがあったあとの「お前はどっち派だ」と迫られる空気。こちらが勝手に感じ取ってしまうだけですが、すげえ居心地悪いのですが悔しいけど見ちゃう、みたいな嫌な臨場性があります。何というか今までインターネットが逃げ場だったのに今はむしろ現実のほうが逃げ場になっているようなそんな感覚があります。」

というメールです。これむしろ私の意見というより、みなさんにぜひ意見をうかがいたいなと思うんですけど、インターネットが逃げ場だったのにむしろ現実のほうが逃げ場になってるよって、結構核心を突いた指摘だなと思ってていまして。Twitter はコロナ後、個人的な感覚としては言葉が強くなってんじゃないかなって感じがするんですよね。定期的に、言葉悪いですけど、誰かがやり玉に挙げられて、血祭りに挙げられて、というのが体感値でいうと2週間に1回ぐらい誰かそのやり玉に挙がってるような感じがしていて。

この「悔しいけど見ちゃう」って気持ちはすごく分かるんですよね。私も誰かが炎上するとそのかたの最新のツイートを見に行くと、リプがいっぱい並んでて、見ると「うわっ」ていうコメントが結構並んでるですけど。でもそれも結局自分が見に行ってしまうっところがあったりして。

このオンライン時代になって、SNS はより殺伐としたのか、それとももうコロナ以前からもう殺伐としていたのか、ご意見をうかがいたいなと思うんですが、いかがですか、みなさん。

倉本 さおり:
それすごい考えたことがあって、あ、速水さん何かあったらいいですけど。

速水 健朗:
どうぞ。

倉本 さおり:
美術館女子っていう――。

野村 高文:
ありましたね。

倉本 さおり:
――美連協がやっている、と読売新聞がコラボでやっていた企画があって、これは AKB48 のメンバーの子が都立美術館をまわって、彼女の写真をグラビアにバエる写真を撮る楽しみみたいなものを訴求して美術館女子っていうコンセプトを打ち出したんですね。

批判がそこに集中して、その批判の理由っていうのは、お客さんの幅を広げたいっていうことで、なぜ美術館女子っていうふうに「女子」っていう言葉をわざと悠長化したのかっていうことと、その悠長化された女子っていうのが楽しむためのポイントみたいなところが「バエる写真が撮れるよ」っていう部分をいっぱい訴求されてて。女子が楽しむところはそこだけじゃないというか、なんで「女子=バエる」に結び付けられなきゃいけないんだみたいな感じで、Twitter 以上ですごい議論があって。

でもそれってたしかに新聞広告でもあったしオンライン上でも美術館女子のサイトが見れるから、オンラインの出来事ではあるんだけど、新聞で議論が拡散される前に Twitter 上での議論がものすごく大きくて、たしか公開されて本当にすぐサイトは見れなくなってしまっていて。たしかに意見が出ることは本当にいいことだと思うし、いろいろ考えて美連協と読売新聞がサイトは一旦閉鎖しますみたいになったこと自体は彼らになりに考えたことがあるからいいですけれども、「閉鎖になって終わったね」で終わってしまって、そのあとの議論みたいなものが消費が速いというか。そこがちょっと懸念するところで。

私自体もその他の記事、例えば週刊新潮の記事とか共同通信とかの記事で「美術館女子っていうことがありましたが」みたいな感じで話のフックにして記事は書いたりとかしていたんだけれども、あまりに議論の消化のスピードが速すぎて、じゃあそのサイトが閉鎖してしまうたらその話はもう終わりなのか、みたいな感じになってしまうところがちょっとこわいなって思ってしまって。

速水 健朗:
「速度が速い」問題って、もうちょっと議論が――。あ、矢野君。

矢野 利裕:
矢野ですけど、単純に Twitter は議論は難しいなっていうのはあって。僕が最近思うのは例えば文部科学大臣の「身の丈」発言とかに関してわりと右っぽいとされる人は「左派の人たちはもっと文脈を読め」っていう言いかたをするんですよね。一方で左派的な「これがハラスメントじゃないか」っていう炎上に関しては「文脈を読め」って。政治的対立に限らずどっちも「もっと文脈を読め」っていう言いかたをしながら、ネット上で炎上してるってのは、なんとなく考えるところで。

Twitter は言葉が独り歩きするし、ネットの記事もバズるようにワードを強くしてるから言葉が独り歩きしてる。メールにあったような「現実のほうが退避場所になってる」っていうのは、「臨場性」っていう言葉だとちょっと見えてこないかもしれないけど、「フェイス・トゥ・フェイスか、ネット上の言葉か」ってなったときに、フェイス・トゥ・フェイスだと表情とかいろんな身振り手振りっていうのも一緒の情報になるから、文脈切断力は緩和されると思うんですね。

だけどもコロナ以降のネットの言葉とかは文脈というものがものすごい切断されたまま独り歩きして、その上で僕はそれが今のスタンダードな言葉の運用だなというふうには思っています。

僕はそれに向けた言葉っていうものをどのように作り上げるかっていうこと[が大事]だと思っていて。これは倉本さんと別の場所でもっと議論したいところですけど、文学作品とかもそれに対応しなきゃいけないけども、そこを見据えてないなっていうのが僕の不満としてあるのが問題意識として持ってるんですけど。

Twitter が原因なのか、ネットが原因なのか分かりませんけども、現実の世界もネットの世界も両方において、言葉の独り歩き、言葉が文脈を切断したまま独り歩きすることが今もうスタンダードの運用だなっていうのが僕の感触でありますね。だからこそ議論が深まらずにどんどん消費されていくっていう感じ。

倉本 さおり:
私その切断の話でちょっと思い出したんですけれども、もう一つ不安だったのが Twitter 上でものすごい一気に燃え上がったあと、紙の媒体でしかそういう時事問題とかに触れてない人って、彼らが参加する前に議論が終わってしまってるっていうことが多くて。今回の美術館女子の話もネットを全然見なくて新聞とか雑誌とかしか見ない人にその話を振ったら「え、そんなのあるの?」みたいな感じでまったくその問題を共有してなかったですよ。

ネット上で切り貼りされて文脈が断ち切られるっていう問題もあるけれども、各メディアで情報を摂取する際の分断みたいなものもあるなと思って。会話がどんどんどんどんリテラシーを擦り合わせるのが難しくなってきている状況が――もちろんコロナの前からそういうことはあったんだけれども――今回自宅でオンライン環境にすごい馴れ親しんだ人たちと、以前から生活が変わってない人とで分断してるところもあるのかなって思いました。

宮崎 智之:
僕もちょっといいですか。野村さんが読んだメール、僕もすごく関心があったんですけれども、僕も iPhone とかでいろいろ[アプリの使用]時間とかを調べれるので、接触時間が増えたってことってあると思うんですね、基本的に自粛期間になって家に篭ってるので。タカハシさんのメールのなかで、内部告発などがあったあとの「お前はどっち派だとを迫られる空気」っていうのがこのメールの「なるほど」っていうふうに感じたところで。

たしかにそういう空気があったのかどうか分からないですけど、僕もちょっと感じたところはあったというか。僕らみたいなオピニオンとか言葉を発してる人間がそういうものを迫られるのは責任がある部分というのがあるにしても、何も反応しないことが「お前はノンポリで冷笑派だろ」っていうふうなことを迫られてしまうような空気っていうのがあって。これはコロナで自粛してるなかで、生活でいっぱいいっぱいになってる人に迫るのはかなり酷だろうなって僕は個人的には思ったんですよ。

速水 健朗:
これ、近内さんは思うところありますか?

近内 悠太:
ネットが前から殺伐としてたのかっていうと、今回の件で露呈した気がして。僕、本書いてから、特に日本人の理性って結構デフォルトでみんなが持ててるものじゃなくて、僕らって普段の判断とか行動って「いじらしい」と思うんですよね。「お前はどっち派なんだ」「え、分かんないよ」とかそういう弱さみたいなものをデフォルトに、でも頑張って「僕は今回は答えはこっちだと思うな」っていうのが大前提の認識になってればもうちょっとコミュニケーションで対話的になると思うんですよね。決めれないよね、分かんないよね、俺たちいじらしいもんね、っていう。

僕らが大したもんだってみんなが思ってるのかなって思うんですよね。俺たちは大した理性を持ってるんだから決めれるだろうと。決めれないのはお前の知的怠慢だってなると思うんですけども。

宮崎 智之:
もっと言えば、「これだ」って弱いなかで決めたとしても、「やっぱり違った」って言ってもいいと思うんですよ。普通の生活ではそうなんですよね。でもなぜかネットだと前言撤回的なものはかなりバッシングされたりもするような風土があるんで、そこらへんがタカハシさんが殺伐と感じてた部分なんじゃないかなってちょっと思いました。

近内 悠太:
弱さというか、いじらしさをみんなが認識のデフォルトにすれば、逆に自分が決断したものについては覚悟を持とうと。「いつもだったら決めれないのに、こんだけ俺は今回決めたんだからそこに覚悟を持って発言するぞ」っていうところがあるんですけど、すごく計算的に「こういうような情報を勘案したらこの結論にならざるを得ない」みたいな、冷静に判断をしたっていうような感じがみんなある気がするんですけど。

もうちょっといじらしさをお互いが認め合えば、意見がぶつかったとしても殺伐とした雰囲気にはならないじゃないか。どうすれば僕らは心底自分のいじらしさが理解できるか、っていうのをすごい考えてますね。

速水 健朗:
はい、塚越君はどうですか。

塚越 健司:
今の議論だと、インターネットが非常に分極化しているっていうこと自身はそうなんだなと思うんですけれども、20 年くらい前ってどうだったのかなっていうの話を聞きながらずっと思ってたんですね。当時は2ちゃんねる全盛期で、かなり厳しい言葉だらけの空間もあったと思うんですけど、一方で結構個人のホームページとかでゲームのホームページがあって、そこのチャットがあって、そこのチャットに集まってきた人がだらだらしゃべってるっていうことも結構あったんですね。

本編で無駄話をするのが大事っていう、職場で休み時間にしゃべってたのができないって話があったと思うんですけれども、インターネットの初期って非常に極端なことを言う人たちと無駄話したりとか、ときには匿名だからこそしゃべれる自分の心の話っていうのも――今でもあると思うんですけれども――そういう空間が2つあったって気がするんですけれども。

匿名だからこそしゃべれる空間、無駄話したり認め合うみたいな話ができたところが、いつの間にかそのへんが全然なくなっちゃって、気付いたら白か黒かはっきりしろみたいなすごい視覚的なメディアというか、結局スクロールしてさまざまな人がいっぱいしゃべってる。自分も何かそこに判断をしなきゃいけないっていう、すごい視覚的なメディアって判断を迫るものになってきていて。

20 年くらい前にあった――僕はまだギリギリそそういう意味では「いいインターネット」を知ってる最後の世代だと思うので――あれはどこに行っちゃったんだろうっていうのはすごい気になるっていうのは結構感じましたね。

速水 健朗:
はい、ネットの速度が加速しているという話――。

鈴木 謙介(charlie):
インターネットの話のような気もするんですけど、今日の臨場性と暴力の話のような気がしているんですね。というのも、文脈の切れた言葉って話がありましたけれども文脈が切れてない言葉って何だろうっていったら、やっぱり「のっぴきならない言葉」だと思うんですよ。

要するに文脈が切れてない言葉ってどういうことか。例えば性暴力の被害を訴えるという言説とそれを誰が言っているのかってすごく大きくないですかって思うわけですね――伊藤詩織さんの問題とかもありましたけれども。言葉としてはたしかに正論、言葉としてはたしかにその通り、あるいは「どっちなんだ」みたいな話があったときに、対面を含めた臨場性のある場面で、応答を迫るのっぴきならないさっていうのが本来応答とかコミュニケーションって言ってるものだったはずなんだけれども、それを文脈、人格から切り離して、言葉として正しいかどうかっていうレベルのコミュニケーション。今日の話でいけば「仕事上はそれでいいじゃん」って話もあったんだけれども、それがたぶん通じない場面っていうのがいくつかあって、そのなかの一つが「暴力を受けた人が自分の暴力について暴力的に人に告白するとき」だと思う。今ブラック・ライヴズ・マターの話でもさまざまな暴動と呼ばれるような出来事が起きているわけだけれども、差別の当事者の人たちの話を聞くと結局自分たちが奪われてきたこととか自分たちがされてきたことっていうのの、のっぴきならなさについて伝えるための手段がまともなコミュニケーションじゃないっていう大前提がそこにはやっぱりあって。

それはもちろん「だから仕方ないんだ」とか、そういう話にできるかどうか分からないけれども、のっぴきならないものとして相手の前に差し出さないとそれが伝わらない。相手はどれだけショックを受けたり傷付いたり自分はそんな人じゃないのに自分も一緒に悪者にされて嫌だってなったりするかもしれないだけれども、そうまでしないと伝わらないだという思いで人にさせ挟む言葉とそれを言葉としてメッセージとしていわばテキストとして切り離して差し出すことっていうものの間にやっぱり質的な差があると僕は思うので。

[だから]こういう話で僕は一切インターネット見ないですね。リプ欄も見ないし、話題になってるツイートも見に行かないしアカウントも一切見ないし。なぜかというとその人ののっぴきならなさ、その問題にのっぴきならないことを感じている人たちと同じ目線で共有することができず、絶対に来年になったら忘れてることだと思っているので。来年になったら忘れていることに何かを使うぐらいだったら、自分はやっぱり誰かのっぴきならない言葉とか誰かのっぴきならない表情だとか、そういうものに関わるほうに時間とか心の余裕を割きたいなとどうしても思うので。今、インターネットでしかそこに触れることができないっていう状況が今いろんなことを辛くしてるとは思ったりしますね。

速水 健朗:
はい、これは、のっぴきならない話、速度の話、躊躇の話、溜めの話。本当文脈によってっていうことだったり、ネット見る・見ないみたいな判断っていうのは Life でずっと話している。今本当にそれをやるべきなの? みたいな話としてこれまでの番組の議論と接続するなっていう話と思いました。

次メッセージあるっけ、どなたかもう1通?

塚越 健司:
あります。はいどうしましょ。いいですか、このまま進めちゃって?

速水 健朗:
もう1通いきましょう。

塚越 健司:
はい、分かりました。ガイエルさん、52 歳、男性、東京都のかたです。「特に緊急事態宣言以降、職場や学校に通うことができなくなって同僚や友人と直接会えずに戸惑ってる人は大勢いるようですね。かく言う私は末席でフラフラしている漫画家なのですが」漫画家さんなんですね。「担当編集とは電話での打ち合わせだけ。年に数回の漫画家同士の飲み会も完全に自粛中となっていて、互いに口に出さないまでも結構なストレスを感じているところです。特に誰かと会う必要はないのになぜこうもイライラするのだろうと考える機会にはなりました。私なりの結論としては日頃悪者扱いされることが多い、いわゆる空気を感じたいという本音に至りました。特に同調圧力となって我々を襲う空気ですが、それでもさまざまな確認や安心に繋がっている事実を私は否定できません。しばしば SNS で問題になるあふれんばかりの憎悪とかとはわりと無縁でいられる知恵というか距離の置きかたはみんな心得ているとは思いますが、逆に SNS ではまったく伝わってこない肌で感じる空気レベルの情報に飢えている人は多いのではないでしょうか。しかしこれは自分基準の感覚なので自信はありません。感染者の人数がもっともっと減って飲み会が再開されたら、かつての空気を浴びるために私はスキップしながら集合場所に向かうことでしょう。」

ということで、さっき charlie さんが言ったこととも関係するなと読みながら思っていたんですけれども、インターネット上の空気ってのはたしかにあると思うんですけれどもそれとはまた全然別の空気っていうのもあるのかなっていうのをちょっとこれを見ながら思っていて。

私もあんまり外出してないので例えば渋谷とかって何ヶ月も行ってないから街の様子がどうなったとかって気になるところもあるし、そう言われてみれば正月感って感じるじゃないですか。正月に街に出たときのあの感じっていうのとかって肌じゃないと感じないところがあるのかなっていうところがあって。

空気って言われているものは悪者として扱われているわけだけど、それでも空気を感じたいんだっていう感覚は特にフリーランスだったりとか毎日満員電車に乗らない仕事の人っていうのは感じるのかなっていうのは――。

宮崎 智之:
――分かります。ちょっと話がずれちゃうかもしれないんですが、臨場性で本編を聴いてて思ってたのが、においってやっぱり臨場性あるよなって思ってて。内沼[晋太郎]さんが出演されたとき、charlie さんが本の物質感みたいなことを、物質としての本が圧力みたいなことをおっしゃっていたんですけど、あれって本のにおいなだと僕は思うんですよね。

図書館に行ったときのにおいの感じとか本屋とか。さらに古本屋なんかもっと本のにおいってすごくしますけども、ああいうものが感じられなくなっちゃったので、家にいて。結構そういうものの臨場感を求めてるてるなっていうふうなものと、あと5月ってやっぱ人が出れなかったけど、僕は犬の散歩とか、みなさんも散歩とかに出ると、なんか改めて5月ってすごい美しい季節だって思ったというか。花がめちゃめちゃ咲いてるなみたいな。なんか実際花とかの写真上げる人が多かったですよ、Twitter とかで。

花の写真を取り込むと花の名前を教えてくれるってアプリがはやかったりなんかして、家に閉じ込められておいとか視覚とか失ったからちょっと外に出るとめちゃめちゃ外の解像度が上がっちゃって、5月ってすごい新緑とは言うけどこんなに美しい季節なんだって改めて思ったりとか。

結構やっぱりにおいとかそういう空気みたいなものって、渋谷って僕も最近行ってないけどないけど、前海外旅行から帰ってきて渋谷に降り立ったら、くさかったんですよ、変な言いかたですけど。都会ならではのくささがあって、街のにおいとかもそういえば渋谷って行ってないけど最近感じてないなっていうふうに思いますね、繁華街独特のにおいとか。

塚越 健司:
においとかっていうのもちょっとそうですけど、メールくださったガイエルさんの話も分かるんです。一方でさっきからいろんな臨場性の話をしてて、VR とかでどのくらい代替できるかって話もやっぱり議論はあると思うんですよね。例えば今、球場でもコンサートでも臨場感、臨場性のなかで足りないのは、においもそうだしあの音ですね。野球場だったらなんか発してる音でそれが体にズンズンって感じるのは、実は効果がある。だからスポーツ会場の音を収録してその音波っていうのをどのくらい家にいる、VR でやってる人たちに与えたら臨場性が再現できるかみたいな研究とかあって。それはどこまでできるかは別としてひとつ面白いなっていうのを感じているのと――。

速水 健朗:
EV もエンジン音がしないから、BMW とかフェラーリとかはエンジン音っぽいものを出すのがここ5年ぐらいはやってたんだけど、あれもみんなに飽きただよね。「偽物の音、いらねえよ」ってなって、ちょっと今不評だったりっていうそれも変化しそうだよね。

塚越 健司:
そうそうあれも BMW だったと思いますけど、本当のエンジン音はもういいからリアル未来感のある音に変えればいいみたいな。独特のスピードが上がるとフィヤーンとかってする未来感がする音を作ってたりとかして、そういう意味では臨場性そのものが変わる。音の意味合いが変わるっていうのもあるかもしれないですよね。

速水 健朗:
ちょっとここまで外伝、みなさんメッセージ読みながらという、ライブの話から反応とか宮崎君の5月美しいっていう謎の話までありましたけど、ここで一旦切ろうと思います。

後半はお付き合いいただけるかた、引き続き残っていいよってかたご参加ください。ここまで文化系トークラジオ Life 番外編前編をお送りしました。引き続き後半、ネットでもいるかた、後半もありますでお付き合いください。それでは後半です。一旦前半おしまい。

〔外伝 Part 1 はここまで〕