鈴木 謙介(charlie):
文化系トークラジオ Life。今日は赤坂 TBS ラジオのスタジオから生放送で「コロナ以後の『臨場性』を考える」というテーマでお届けしております。
ここまで話してきたこと自体は、いろんな現場で「オンラインになって良かった」みたいなものがある一方で、「オンラインだとなかなか今までできていたことができない」っていうところがあって苦労しているという話だったんですけれども。
個々苦労していることや良くなったことっていうのをまとめていったときに、全部を総括することはできないんだけれど、1つ論点として浮かび上がってきたのは、オフラインとか対面しているっていうことによって生じる、あるいはオンラインでも臨場性が高まることによって生じる、ある種の関係の「避けがたさ」ですよね。
要するに教育の現場であれば、生徒のほうはそこまでしてほしくないと思っているのに、何やらしつこく関わってきて、いろんなことを聞いてくるだけじゃなくて、「答えろ」と言ってくるみたいな。ある種の押し付けがましさもあるし、それから先ほど労働組合の勧誘の話とかもありましたけれども、「価値は分からないけど、とにかく入れ」からスタートしないといけないもの、なんていうものの意味が伝わらない。教育もそうかもしれないですね。「こんなことを勉強して何の役に立つんだ」ってみんな言うので。それについて「今分からなくてもいいからとりあえず勉強しろ」って言わなきゃいけないことが伝わらないかもしれない、だとか。
あるいはその他のものでも――テーブルには永田先生も戻ってきて、その向こうにはめろん先生もいるんですけど――例えば表現とか。表現ってだって、今いろんなところで「無観客ライブ」って言ってますけど、もちろんチケットを買ってオンラインで向こうで見てる人がいるんだけれども、表現したい人のなかには、ある程度大なり小ない目の前にいる人に自分の表現を押し付けたい。だから表現してるわけでっていう側面ってあって。完全に孤立した状態で作品を作り上げてしまう人もいないわけじゃないけれども、表現というとやっぱ表現相手がどうしてもいるだろう、というようなことだったり。
いろんなことっていうのが、うまくいってるのか、いってないのか、まだよく分かんないんだけれども、今まで通りじゃないときに、うまく表現できたり伝達できたり、あるいは影響を与えたりすることができるようになった部分もあれば、明らかにそれがなくなっているなと思う部分もあるであろう。
ということで、ここから残り1時間もないぐらいのパート、途中もう1曲ぐらいはさすがに挟めますけれども。それでも我々はコロナ以後に臨場していたことによって伝わっていたものっていうのを回復しようとするのか。それとも、いやいやもう、これこそ「アフターコロナだ」「ウィズ・コロナだ」「やりかたを変えろ」「新しい生活様式だ」と言うのか。これは二者択一じゃないんだけど、なんかの場面では「授業、オンラインにしますか、オフラインにしますか」と迫られるわけで。そういうところからいこうかなと思っておりますが。
ちょっと教育話が長く続いたんで、永田先生。というわけで、エンターテイメントもオンラインですが。
永田 夏来:
別に教育の話でもどっちでもいいですけど、私さっきからちょっと気になってたこととしては、臨場性ということを考えるときに暴力、欲望と関係というキーワードから考えましょうっていう話、あると思うんですけれども。これってハラスメントの要素でもあるよ。暴力と欲望と関係、特に欲望っていうキーワードが入ってくるので。
教育っていうのは権力関係がはっきり固定している場だから、先生が強く出るっていうことが制度上オッケーなんだけれども。そうじゃなくて人間関係全般で考えてみた場合には、相手に対して半ば介入していくっていうような臨場性のある人間関係っていうのは、受け手にとってどの程度の快適なものなのかっていうことを常に考えてやらないと、一方的な押し付けになってしまうっていうことから逃れられないわけだよね。
そこのところを掘り下げていかないと、ただ臨場性っていうことから深いコミュニケーションとか「分かった」感とかいうのを追求するっていうところに軸を置くと、権威を行使したいとか、自分の思うように相手を変えたいんだっていう、権力の非対称性の話を相対化することができなくなるから、そこがかなり気になるところだよね。
鈴木 謙介(charlie):
でもそれって、どんな関係があり得るかって話なんですよね。教育には教員が強く出ることが許されるって話があったけれども、「絶対に許されないだ」ってガイドラインもあり得るわけですよね。
永田 夏来:
そこは線引きでしょ、結局。
鈴木 謙介(charlie):
その線引きは、そもそも引けるんですかって話も含めて、個々の教員と生徒の関係じゃないですか。要するにガイドラインとして「こういう行動はダメ」って話じゃないですか、行為のレベルまで。つまりどういう意味を持ったアクションなのか、ビヘイビアなのかっていうことまで考えないと、ハラスメント問題であったりだとか介入の問題っていうことを規定することってすごく難しいので。多くの現場の教員に行動のレベルで伝わっちゃいますよね。
矢野 利裕:
僕がさっき言った話の多くはハラスメントの問題と隣り合わせだなと思っていて。
僕の発想だと――批判してもらって構わないですけど――ハラスメントにならないために関係を深くするっていう。行動とか言葉が独り歩きしちゃうから。
ハラスメントは定義上は、相手がどう思うかっていうのがすごく重視されるとこなんで、相手がどう思うかだから権力性をそこで無化できるですけども。逆に言葉を届ける、行動が独り歩きしないために言葉とか行動する基盤になる関係性というものをいかに作るかっていう、そういう――。
鈴木 謙介(charlie):
文脈まで伝わるってこと?
矢野 利裕:
――意図っていうかね。そういうことを考えましたけどね。
永田 夏来:
ハラスメントの話とか非対称性の話っていうのは、対面状況を今まで前提にしてずっと話をしてきているから、Zoom なり何なりというリモートのなかでの人間関係ということに関しては、ほとんど野放図というか、全然前提が共有されてない状態なんじゃないかなと思うけどね。
鈴木 謙介(charlie):
もちろんリモートでもハラスメントは起こりうるに決まっているので。個人的にもそれは間々感じているし、学内でもそういう報告もあるし。
それは「ビデオオンにする・しない問題」で、簡単に言うとそこですよ。簡単にっていうか、一番分かりやすく言うと。オンにしないとコミュニケーションができないと思っている人がいて、オフにしたいと思っている学生がいて。そこにもまさまざまな事情があり、その事情も斟酌(しんしゃく)するべきものから、「それはさすがに、無理ない範囲でオンにしていこうよ」みたいなところまで、種々あるわけですよね。
大まかには何かが共有されてはいくと思うんですけれども――全員一応ここにいるのは教育関係者なので、あれなんですけれども。どうですか、全員がビデオオフで例えばゼミナールのようなディスカッション形式の授業をやりましょうというのが、ある種オブリゲーション(obligation)――そっちがデフォルトで、「どうしてもオンにしたい人はしていいよ」みたいな形にこれからなっていく可能性十分ありますよね。どうですかね。やりやすい、やりにくいみたいなのも含めて。
矢野 利裕:
臨場性とか対面の話をしたときに、僕なんかは声が大きいみたいなことを利用してるなってことやっぱあるわけですよ。そうすると例えばジェンダー差とかも出てくるだろうし、そういう気圧配置のなかで日々生きているっていうところがあって。もし「オフにしてやりましょうよ」ってときに、力関係はたぶん相対的に変わりますよね。何かしらの形でそういうふうに非対称性が生まれると思うんですけど、それが可変的になるっていうのはオンライン後の風景としてはあり得るのかなと思いました。
永田 夏来:
教育も目的によって違うじゃないのと思うけどね。私たちが今まで受けてきている教育っていうのはミメーシス――感染だよね。誰か圧倒的な指導する側の先生っていうのがいて、その人のものの考えとか一挙手一投足とかをめっちゃマネして OS をガッとインストールするっていうような教育を受けてきてるから。それがすごくよかったと思ってるからね。だから同じようなことを学生にも提供したいなって思うんだけれども、それって対面で会うっていうことが大前提だったし、もっと言うとハラスメントであるだとか、上下関係であるだとかっていうようなこととのセットだったわけじゃないですか。
この問いって大きな問いで、教育の仕組みであるだとか学問の仕組みみたいなものの行動自体を問い直すような話ではあるなと思うよ。この臨場性っていうーテーマ設定自体がね。
鈴木 謙介(charlie):
教育もそうだし、野村さんが出てこれるんだったらおうかがいしたいんですけど、僕が今すごい心配してるのは学生たちがオンラインで、かつさまざまな配慮を合理的にしてもらえる環境ってのを僕らはやっぱ整えていくべきだと思うんだけれども、企業が採用活動をする際にそれを許してくれるかどうか。
例えば採用面接でビデオオフです――たぶん無理だと思うんですよね。もっと言えば、じゃあそういうときのために、「グループ・ディスカッションもオンラインです」ってなったときに、「大学でそういう経験を一切してません」って言うと、特に私立大学なんかは社会にいろんなものを還元する前提で国公立より高い学費を取っているわけだから、就職に役に立つのがすべてと思わんが、しかしそういうことも一切してもらっていなかったって話になるといろいろとややこしいと。
一方で企業には今 ESG 経営みたいなものも求められていて、さまざまな――例えばダイバーシティ経営でもいいですけれども――教育機関がそうであるように企業の採用活動、経営マネージメント、そういうものを変えていかなきゃダメだって話もあり得ると思うんですけれども。これ教育がどうなるって話じゃなくて企業のなかでの人間関係の作りかた、あるいは先ほどおっしゃってたような非連続な創造性みたいなものも関わってくると思いますけども、野村さん。すごい大きい話題を投げました。
野村 高文:
遠くからまた失礼します。そうですね、今まで対面というかリアルで同じ空間を接していたことでなんとなくできていたことっていうのが、オンラインになることによって「これはもうなんとなくではできない」「これは、とは言え、できる」っていうのを切り分けなきゃいけないだろうなってことは思っていまして。
何回もここでも出てるとおり、背中で覚えるみたいな話が難しくなってくるわけじゃないですか。だとしたら、メンターとメンティーって言うんですか、一対一の環境を作って、とにかく一人で抱え込まないようにするみたいな仕組みは作んなきゃいけないだろうなと思いました。
もう1個、さっきハラスメントっていうところで思ったのが、オンラインならではのハラスメントに上の人はやっぱ自覚的になんなきゃいけないなと思っていて、最近「スラハラ」って言葉が出てきるですよね。「Slack ハラスメント」っていう言葉があって。何だそりゃと思ってみたら、Slack ってチャット・ツールなんですけど、上司が短文で「あれどうなった?」みたいなことを部下に聞くと。そうすると部下からすると「あれどうなった?」って1文しか見えないので、すごいプレッシャーを感じると。だから上司としては軽く聞いてるつもりでも、部下はそれを答えるために1時間ぐらい自分の業務の時間を使って答えるみたいなことが起きてしまって。部下のほうが精神的にだんだんと追い込まれていくみたいなことがあったりするので。オンラインならではの自分の権力というかパワーに自覚的になっていかなきゃいけないのかなとは思いますね。
鈴木 謙介(charlie):
永田さん、メンター、メンティーの話もあったけれども、今多くの企業がそういう個別に関係を持って指導していくっていうことをいいこととしてやっているけど、じゃあその上に立つ側の指導ってどんだけやってるんですかみたいな話は――もちろん企業によっても違います――最初にお客さん勧誘に行くような営業を任せるような会社はいっぱいあるけれど、絶対にそこでハラスメント的なことだったり、何だったら好きになっちゃったり口説いちゃったり、みたいなことが発生しないようにかなりロールプレイをしてから行かせるような会社もある。全然グダグダの会社もいっぱいある。っていうのなかで、どうやって教える――教わる側だけじゃなくて――教える側を増やさないともう対応できないんだけど。これってむずくないですか?
永田 夏来:
仕事の話は学校教育とか全然私は違うと思いますよ。すごい冷たい言いかたすると、仕事ごときに臨場性がある人間関係求める必要ある?っていう言いかたもできるんじゃないかな。仕事の話をすればいいわけだから。相手のことをメンタリティーとかそういうところまで把握したうえで、きちんとした全人格的な人間関係というのを作っていくことを全員に求めなくてもいいじゃないの、職場なんだったら。
メンターとか、それは教育だから、教育っていう観点で何か特別な立場の人間を作る。で、それをどういうふうに育成するのかっていう話はあり得ると思うけれども、私に言わせれば職場で「髪を切った」だの、「痩せた」だの、「肥えた」だの、というようなところで、いちいち個人的な人間関係を求められるっていうことの問題点っていうところのほうがむしろ大きくて。そういうようなことではなくて、内容でコミュニケーションを取れるっていうようなツールとして、Zoom なり Slack なりっていうのがうまく機能するんだったら、それはそれで働きやすくなるっていう側面はあると思ってるね。
鈴木 謙介(charlie):
個人的にはたぶんそれは――今日の話とはずれるからあれだけど――たぶん労働の二層構造を促すだけで。要するに仲良くならなくていいから出世もないし配置転換もないし給料も上がらないよっていう役を一定層作って、密になれるやつだけはお仲間ねっていう二重構造をたぶん拡大するような気がしているので。もちろん会社によって、あるいはそもそもの業務によって違うから何とも言えないところではあったりするけれども、たぶん今日の本題の話からずれるので一旦置いといて。
今話をしているのは人と関わりを持っていくときに、人格ではなくて役割あるいは機能でコミュニケーションを取っていくっていうところに、特にオンラインの場合情報を限定できるからやりやすいわけで。これを機に対面の関係だって別に機能化してもいいじゃないかという論点と、それだといろんなものがいろいろ困るですけどっていう話。労働組合の話なんか機能で言ったら多くの人が最初はいらないと思うので。若い人はね、入社した段階では。
こういうような話とかってなってくると、それケースバイケースとかになっていいのか、みたいな感じもちょっとしてきますが。
全然みんなどんどん入ってきていいですよ。めろん先生、人と人とが関係をしていくっていうレベルの話まで掘り下げて今やってるんですけど。
海猫沢 めろん:
仕事とか教育に関しての話はわりと現場レベルの話でなるほどと聞いていたんですけど、僕仕事も教育も距離が遠い感じなんですけど。
論点を増やしちゃうかもしれないですけど、臨場性っていうテーマで考えたのはイタコのことなんですよ。これ、Life で昔やったと思うんだけど、俺。
永田 夏来:
その話聞いた覚えがある。
海猫沢 めろん:
そうなんですよ。昔イタコに会いに行ったことがあって、青森の。それは太宰治の霊を降ろしてもらうために行って、怒られたんですけど。
スピリチュアル業界って前からリモートがあるんですよ。遠隔で気を送るとか。「5千円払ったら気を送ってくれます」とかあって。それ分かんないし、何だろうと思ってて。今回夏にまた会いに行きたいなと思ってたんですよ、イタコにね。でもたぶんさ、絶対無理じゃない? 今の状況だと。でもどうするだろうなみたいな。遠隔でやるのかな。遠隔でイタコがいて、なんかを降ろしてくれるみたいな。
そうなったときにさ、みんなそれやるのかなと思うけど、当時行ったときに俺思ったのは、みんな知り合いを降ろしてくれって言うわけですよね。でもそのイタコは知り合いを知らなくても降ろしてくれるわけでしょ。よくあるけどさ、外人を降ろしてくれって言ったらさ、東北弁でしゃべれるわけですよ。おかしいじゃないですか。でもみんな感動してるんですよね。全員東北弁しゃべるんですよ、誰を降ろしても。
結局自分の内面とか、他者からもらっているものじゃなくて自分がもともと持ってるものを自分のなかでフィードバックして、自分でそれを発見していって。それは今日の近内さんの本における贈与って結構重要なのが、贈与って実は他人からもらったものとかじゃなくて、すでにもらっていたものを自分で発見するっていうことが結構重要だっていう話が書いてあって。
臨場性を越えてそれを発見するっていう瞬間があるんですよ、イタコを見に行ったときにね。それが何かって言うとたぶん、俺は超臨場性みたいなものだと思って。まずその人がいて、その人とコミュニケーションを取ってて関係性がすでにあるっていう臨場性がすでにあった状態において、もうそれがなくなったあとに別の人にその臨場性を再現してもらうんだけど、それは自分が勝手に再現している臨場性であって。超臨場性みたいな、バーチャルなものなんですね。
これはさっき言ってた教育の関係性の暴力とかそういうもので考えると、イタコだからっていう権威の暴力があるんだけれども、彼らはすごい弱い暴力というか、あんまり発揮してないわけです。イタコであるっていうことだけなんです。言ってることは結構テンプレだし。それを発見しているのは相談者側なんで、非常にマイルドな暴力というかうまくそれが働いている気がするんですね。
たぶん教育現場とか仕事でも重要なのって、結局僕は子どもを育てても思うんだけど、自分で発見してほしいんですよ。ミメーシスとかってさっきおっしゃってたですけど、永田さん、それもすごい分かるですよ。その感染しちゃうって。でも感染って結構コピー人間を生むことにしかならないっていうことを知ってるわけですよ、僕は。芸術とかアートってそうなんですけど。その過程としては必要だけど最終的には自分で自分のなかにある何かを、もともと持ってたものを発見してほしいっていうのがあって。
そういう臨場性を超えたものに――でも臨場性は必要で、なんかうまく言えないですけど。
鈴木 謙介(charlie):
今言っているのは――パート締めるので矢野君に振るけど――今言ってたのって、さっき市場の関係性で橋を渡して広げるっていうのが教育の交換のなかであり得るって話をしたけれども、本質のところは――近内さんも同じこと言ってたんだけれども――臨場性の痕跡なんだよねっていう話で。
今臨場しているかどうかによって発生しているものとは別のところに本来目指していたものがあって、そして「俺も何もしてないよ」みたいなことをよく言うけれども、その痕跡みたいなものを見たいのはこっちの欲望なんだよね。ちゃんと爪痕を残したのを見たいのはこっちなんだよね。でも残ったかどうかを確かめに行かなくても残っているものは残っていると、自分を信頼するかどうかみたいなところがあって。それが信頼できないとやっぱり爪痕を残しているかどうか確かめに行っちゃうってとかあるかなと思ったよっていう話をしたうえで、全然関係ない曲を振るんですけど。
今聞いた話のまとめも含めて、ちょっと曲紹介まで振っちゃうわ。なぜかと言うとお尻が詰まってきてるんで。
矢野 利裕:
見たい欲望すらも僕はなくなればいいなって日々を持ってますけど、正直。
曲は外出自粛期に音楽と政治の話って結構盛り上がってたと思うんですけども、プロテスト・ソング的なのも出たし、いろいろと。そのなかで僕は『コミックソングがJ-POPを作った』って本を書いてますけど、音楽の政治性って、これもふと訪れるところがあると思って、鈴木あみさんのですね「alone in my room」をふと聞いたらめちゃめちゃ響いて。歌詞が「楽しいかもね そういう人にもこういう場所も悪くないね たまにはいいね そういうときこういう時期に嫌じゃない alone in my room」。すごい社会派だなって思って。
言葉も曲もそういうのを越えてきて、なお政治的であり得るということを感じた曲です。ということで、鈴木あみで「alone in my room」。
<曲>
〔Part 4 はここまで〕