塚越 健司:
文化系トークラジオ Life、今日は『コロナ下の「新・日常」を生きる』という本放送を経て、外伝の Part 3 の収録を行っております。引き続きみなさん集まって議論していただいていますが。
めろん先生が先ほどまで Skype ではバーチャルの VTuber で〔したが、今は〕中身が出ました。
ここからはいろんなリスナーさんからのメールを紹介したいんですけれども。
私のほうから1つ。ラジオネーム・おにぎりさん・男性・岩手県のかたです。「今回のコロナで私が感じたのはカタカナの表現はときとして物事の本質をぼかす役割を果たすんだなぁということです。例えばステイ・ホームという表現1つとっても、本来はテレワークの実施の要請に従った結果であるにも関わらず、今ではステイ・ホームという表現であたかも自発的に家にいます的な、柔らかい表現として集約されたりするなど、武田砂鉄さんの著書『紋切型社会――言葉で固まる現代を解きほぐす』のなかに出てくるような、紋切型表現に踊らされてその表現の背後にある本質をぼかす役割があるのかなと、コロナ騒動で出てきたカタカナ表現に対して思いました。」というメールいただきました。
今回とにかくいろんな言葉、カタカナもそうだし、ソーシャル・ディスタンスなのか、ソーシャル・ディスタンシングなのかみたいな、いろんな議論が出て――もちろん言ってくださったようにぼかすって意味もあるし、逆に言葉を作ることで人々に何かを周知するっていうこともあったりすると思うんですけれども。いろんな読み取りかたがあると思うんですけど。
倉本さんにちょっとお聞きしたいんですけれども――。
倉本 さおり:
めっちゃわかる、それ。
塚越 健司:
先ほどツイキャスでも売れてる本ってありますかみたいな話、あったと思いますけど、今の全体の話聞いて、ちょっといかがでしょう。
倉本 さおり:
今言葉の話がちょうど出たんでご紹介したいものがあって、こないだ Life のツイキャスで「ちょっと放送してみます、お試し版」のときにもちょっと出たと思うんですけども、パオロ・ジョルダーノの『コロナの時代の僕ら』。早川書房から出てる本なんですけれども。
これ今すごいいろんなところで話題になってて、ちょっと早川書房の煽りもちょっとなんか「コロナ時代の新文学」みたいな感じで煽っちゃってるんですけれども。内容自体はものすごく理性的に客観的に、ものすごく淡々とイタリアの作家が、イタリアで2月の後半ぐらいから3月の初旬ぐらいまでに起きた出来事を、何が起きていうのをつぶさに書き留めることでなんかこの事態が見えてくるんじゃないかっていう精神で淡々と――ものすごくこの人、理系的な頭を持っているんですけど――淡々と書いていくんですよ。
その時点でものすごく話題になった本なんだけれども、日本版が翻訳されるにあたって、日本版には3月の後半に書かれたエッセーも併録されることになって、それがむちゃくちゃいいんですよ。
ちょっと何個か読みたいんですけど。言葉の問題についてちょっと朗読しますね。
塚越 健司:
お願いします。
倉本 さおり:
「このところ戦争という言葉がますます頻繁に用いられるようになってきた。フランスのマクロン大統領が全国民に対する声明で用い、政治家にジャーナリスト、コメンテーターが繰り返し使い、医師まで用いるようになっている。『これは戦争だ』『戦時のようなものだ』『戦いに備えよう』といった具合に。だがそれは違う。僕らは戦争しているわけではない。僕らは公衆衛生上の緊急事態の真っ只なかにいる。まもなく社会経済的な緊急事態も訪れるだろう。今度の緊急事態は戦争と同じぐらい劇的だが、戦争とは本質的に異なっており、あくまで別物として対処すべきだ。」――ここからが大事なんですけど――「今戦争を語るのは、言ってみれば恣意的な言葉選びを利用した詐欺だ。少なくとも僕らにとっては完全に新しい時代を、そう言われればこちらもよく知っているような気になってしまう他のもののせいにしてごまかそうとする詐欺の新たな手口なのだ。」
宮崎 智之:
僕も読みました。すごく面白かった。
倉本 さおり:
戦争っていう大きな言葉が使われることによって問題の本質から目を逸らして、火事場泥棒みたいなことが起きてしまっている節もあると思うんですよね。そこに対する警鐘をいち早く鳴らしてるんですよね。
塚越 健司:
これは結構早い時期に言われてることですから、日本でも言葉の扱いがかなりいろんな議論になっていますけれども、それはたしかにありますね。
あの斉藤さんもにもちょっとお聞きしたいんですけれども、ご著書を出されたっていうことで。
お話いろいろここまで聞いてきて、今、本の話出てきましたけど、いかがでしょう。
斉藤 哲也:
今の、戦争の比喩っていうのは、たぶん日本だと増田聡(ますだ さとし)さんっていう、大阪市立大学の研究者がいるじゃないですか、彼が Twitter で結構早い時期に同じように、今のコロナウイルスの問題を戦争の比喩で語ってはいけないって言っていて。
結局、「戦争」って友と敵をすごく分ける言葉ですよね。
増田聡 (@smasuda) / Twitter
https://twitter.com/smasuda
もちろんそこで言うのはウイルスと人間なのかもしれないけど、戦争って語った時点で人間の世界のなかでもすぐに友と敵を分けるとか――実際今そうやって自粛警察みたいなことも起きているわけだし――いうことを今聞いていて思いましたね。
倉本 さおり:
パオロ・ジョルダーノが、前の章のところでまたいいことを言っていて――。
「感染症の流行はいずれも医療的な緊急事態である以前に、数学的な緊急事態だ。なぜかと言えば、数学とは実は数の科学なのではなく、関係の科学だからだ。」――って言ってるんですよ。で、そのあと――「そして感染症とは僕らのさまざまな関係性を侵(おか)す病だ。」
それを聞いたときに物事に対して、自分たちが表層の部分で過剰に扇情的にさせられていた部分があるなということにハッと気付かされれたっていうか。
宮崎 智之:
今回のコロナのことが出てきたときに、いろんな言葉が出てきたりもしますし、疫学的な問題ってのは、文系の僕らは触れてこなかった問題なわけで。
僕も世の中の複雑さにめまいがしてしまったというか。誰か単純にしてほしいなみたいな感じでちょっと思ってしまった部分があって。でもそこは単純にしてはいけないんだけれども、分かるような言葉でも伝えなくてはいけないっていうのが一方であって。
この『コロナの時代の僕ら』の作者は素粒子物理学が専門で、僕も倉本さんに紹介してもらって読もうと思ったときに、理系の本だから難しいんじゃないかなんて思ったんだけど全然そんなことがなくて――。
倉本 さおり:
でしょ!
宮崎 智之:
さっき倉本さんがご紹介した数学の部分で、僕はすごく納得したところがあって、「身長差の数学」っていう章があるんですけれども、それもすごく比喩が分かりやすくて。ウイルスとか疫学的な意味って比例的に伸びていくわけではなく、非線形的な急激な伸びかたをしますよね。それがパッとイメージしにくい。徐々に徐々に増えていくのではないっていう。
爆発的に増えることってのは――他のニューヨークとかの都市を見てもそうなんだけど――、このかたがそれを説明するのに書いているのは、お父さんがスピードを出しすぎる車は愚かだってお父さんが教えてくれったって、子どもの頃。なぜかと言うと、スピードが倍になったからといって衝撃が倍になるわけじゃないんだよと。実はその、スピードとエネルギーの法則ってのは、非線形的なことになっていて、スピードが倍になると倍の衝撃なんじゃなくて自乗的に増えるのでそれをーー。
塚越 健司:
神里さんから「4倍」っていうアクションをしていただきました。
宮崎 智之:
そうそう。それを知らないでスピードを出してる奴は愚かだっていうふうに言ったって覚えてると。それをコロナに掛け合わせて語ってくれてるわけですけど、単純化してはいけないんだけれども、分かりやすい言葉みたいなものがこの本には結構――分かりやすいというか伝わりやすい言葉ってのが詰まっていて、すごく僕も面白かった というか。
charlie:
一方では「戦争の比喩は危険だ」っていう言いかたも僕はすごく危険だと思うんですよ。なぜかって言うと「これは戦争だ」って戦争のときに言わないからです。
戦争のときには「これは自分たちの身を守るためにしかたないんだ」とか「これは資源を確保するための戦略だ」とか、「戦争だ」って言わないんですよ。
昔アニメでも使われたんだけど、茨城のり子が「敵について」っていう詩を書いてますよね。そんなかで、「敵は昔のように鎧かぶとで一騎 おどり出てくるものじゃない 現代では計算尺や高等数学やデータを 駆使して算出されるものなのです」っていうのを書いていて。
要は、敵が見えなくって、見えない敵を数学的に作って、そこと一生懸命格闘しているっていう比喩は、僕たちがずっと向き合ってきたもので、そこに対してたしかにこれは戦争ではない。戦争ではないけれども、本当の戦争はもっと巧妙に、もと美しい比喩であたかも戦争ではないかのように迫ってくる。
だから「戦争だ」って言われているうちはまだ甘いかもしれない。本当に戦争状態になって、例えば医療機関のかただとか、これをまるで野戦病院だとかっていうようなことがヨーロッパでは言われているわけですけども、たぶん僕らの誰も野戦病院って経験したことがないんですよ。だから想像の範囲外。無理やり言葉を当てはめるとしたら、野戦病院みたいな。
そういう状況が日常的になってきたときに、病院ってそういうものでしょってなっていったときに、そこに「いや、これは病院というものが持っている言葉で表現するべきものじゃない」という表現ができるかどうかのほうが、実は大事になってくるのかなあと思っちゃうんですよね。
倉本 さおり:
ただ、パオロ・ジョルダーノもそのへんのことは分かっていて、まずイタリアが移民社会だからその場にいて断絶の危うさみたいなものをものすごく肌で感じていてこの言葉が出たとは思うんですよね。
でも戦争じゃなくて何かって言ったときに、「常に考え続けることが大事だ」っていうことで、最後の章がとにかく「僕は忘れたくない」の連続なんですよ。「僕は忘れたくない」ってフレーズが何回も出てきて。
一番最初の「僕は忘れたくない」は自分の国の医療従事者の人たちや、心のある人たちがすごく一致団結して一番最後の機会を一応乗り越えた瞬間のそのことは書かれていて、でも多分これは「忘れたくない」と僕が言わなくってもみんな覚えてるだろうって言ってから、でも「僕は忘れたくない」っていうくだりが始まってくんです。
それは自分たちがいかに愚かな行動をしてしまったかっていう、自分の振る舞いも含めて克明に書き付けていくんですよ。そこが私は政治っていうのは、決定を下すことそれ自体ももちろん大事なんだけど、そこに至るまでの過程とか考え続けることっていうことが一番大事だと思っていて。決着をつけさせないっていう意味でこの本を提示したんだと思うんですよね。
宮崎 智之:
文学方面がどうなってくるのかなって気になってて。さっき charlie さんの話で思い出したが、吉本隆明が戦時中のことを思い出して語ってるのがあるんですけども、非常に戦時中は美しい言葉に溢れてたって言うんですよね。いかなるデカダンスも許さないような、潔癖な美しい社会だったっていうふうに振り返っていて。だから戦後はその反動もあったのか、デカダンス文化が流行するわけですけども。
一方当事、太宰治みたいなデカダンスとか無頼派の文学者が何をしてたかっていうと、太宰なりの反抗で御伽草子とか子どものストーリーのなかに皮肉を入れたり社会風刺を入れたりとかっていうふうにしていったと。
そういうような可能性、文学特有の直接的な表現じゃないし、敵と友とかっていう、はっきりは分かれるようなものでもないけども、そういう物語に何かそういうものを秘めるような文学はこれから出てくるのか、出てくる傾向がもうあるのかっていうのはどうなんですかね。
塚越 健司:
出てきたときに、それをどういうふうに人が受け取るのかっていう、言葉の発出と受け取り――人々がどう受け取るのかっていうことも含めた、コミュニケーション全体のありかたがたぶん問われることになると。
この点は神里さんにもこのへんのお話ちょっとお聞きしたいんですけど。今の話聞いてみて、神里さん、何かありますか。
神里 達博:
僕が一応思ったのが、理系の先生みたいなのと文系の先生みたいなのが日本だとすごく分かれているじゃないですか。ヨーロッパの大学の先生とか学者とかっていうと、そのへんが共通基盤の教養のレベルが違うなといつも思ってるんですよね。
そうすると例えば、自然科学の先生であっても「民主主義とは何か」とか「政治とは何か」とか「社会とは何か」みたいなことを考えたことがないとかっていう人はいなくて。少なくともある水準の先生は、社会との自分の仕事の関係についての――教養としか言いようがないんだけど――そのような厚みがすごいあるのに対して、どうしても日本の――こういう言いかたをすると怒られるかもしれないけど――日本の主に理系の先生たちって「私はそういうことは分かりません」「文系のことを分からないんです」「歴史のことは知りません」とか、平然と言うっていうね。「自分は専門家だから」みたいな。
そういうところがあるのに対して、日本でもそういうレベルの――昔はあったのか分からないけど――そういう本が出るような社会になったら――まったくいないわけではないですよ。福岡〔伸一〕先生とかね、京都の――今青学か。ああいう先生はいるんだけれども、サイエンスの話と政治の話、社会の話を語れるような本当のサイエンティストってのは多くないってのがすごく思いましたってのが感想です。
塚越 健司:
ってことは、言葉を作る人っていうか、うまく表現するっていうことのハードルもあるし、逆に言えば理系と文系が分かれてると仮定するんであれば、それを受け取る私たち自身もそれにもいくつかのハードルがあって結構厳しいっていうなかで、「名付ける」ことは一つの力、パワーですから、そこが問われてるっていうのは間違いないと思いますね。
めろん先生、今こういう話聞いててどうでしょう、物を書く人として。
海猫沢 めろん:
小説家の友だちとかと話すと、今このコロナをテーマにせざるを得ないところがあるっていう話にこないだなったんですけど、どういうふうにそれを書くかっていうところで、やっぱり震災のときも同じ問題が出たんですね。
震災のときは当然みんな言ったんですけど、文学って遅効性、遅いものだから、焦って書くものじゃなくて、残ったり、あとで読んでこうだったって思うようなものを残さなきゃいけない、みたいな言いかたで。
結果的にいろいろな文学の人が震災文学を書いていろんな賞を取ったりもしたんですよね。でも僕は普遍的に面白いものが少なかった気が僕はしているんですよね。
難しいよね、それは。僕はひねくれてるから、みんなが書きそうだから書きたくねえなって思ってるんですけど。
倉本 さおり:
でもなんか分かります。
海猫沢 めろん:
書くんだったら全然にコロナ小説だと思えないようなものなんだけど、なんかすごいひねると「そうも見えるよね」ぐらいのもので残るものとか、もうちょっと広いものを書きたいなとか。一過性で終わるものを書きたくないと思ってるんですよね、どうしても。
倉本 さおり:
3.11 の頃は9年前ですよね、9年前の頃って沈黙に耐えることができるか否かみたいなものがリトマス試験紙になったところとかもあって。あのときはどちらかというと沈黙に耐えるほうが多かった気もするんですけれども、最近フェミニズム文学ってすごい興隆してるじゃないですか。声を上げればエンパワメントされるみたいな流れも一方では立ち上ってきていて。
どちらかというと9年前よりは、今この時点で何かを残しておくことが、社会を変えることに繋がるんじゃない? みたいな考えがあるからこそ、そんな3月の頭までのエッセイを3月の後半に翻訳されるっていう流れがあったんだと思うんですよね。
宮崎 智之:
なるほど。
倉本 さおり:
それはどっちが良い悪いってことではないんだけれども、人々のモードは今そっちに行ってるのかなっていう気はしないでもないです。
宮崎 智之:
めろん先生が先ほど言った流れで言えば、太宰が子どもの御伽草子の話に非常に深い人間洞察の皮肉を込めたみたいなほうが、めろん先生としてはやってみたい――。
海猫沢 めろん:
そうですね。今読むと疫病とか病気ものっていう要素が入ってるものって結構あって、あの、大江健三郎の『芽むしり仔撃ち』とかも疫病が背景にあるんですよね。
疫病で閉ざされた街で子どもが自分たちの世界を作っていくっていう話で、今読むとあって、でも言われないと忘れてて。そこじゃない部分が印象に残ってたりして。そういうバランスでいいのかな。
震災のときと違って、やっぱり世界的なムーブメントっていうか、世界的な規模じゃないですか。よりみんなそっちに行かざるを得ないので、逆に嫌だなと思ってる。
宮崎 智之:
どっちが良いとか悪いとかないですけどね。スタンスはそれぞれ出てくるのかなと。
塚越 健司:
一方で、内容も、届けかたもなんですけど、これははないさんにもお話聞きしたいんです。
今雑誌に携わっていらっしゃると思うんですけれども、雑誌も書籍も売れるものは売れるけど、全体厳しいなんて話も聞くと思うんですよね。本屋さんが閉まってるから流通経路的っていうか、販売がなかなか難しいなかで、届ける側としてどういうふうに感じられてますか。
はない ゆうた:
そうですね、今も作ってる最中なんですけども、6月発売号を。かなりドラスティックに特集丸々入れ替えて全部リモートで取材するっていうふうに切り替えました。
それでも取材はできるっちゃできるんですよ。だけど、写真だったりとかっていうのはどうしても撮れないですよね。震災のときと比べると、震災のときは被災された地域とかっていうのはあるものの、行けるところはあったし会おうと思えば会える人たちもたくさんいたんですよね。でも今それがまったく駄目になっているっていうなかで、かなり制約が強固すぎる。
今号は作れて次号も頑張れたとして、〔コロナが〕ずっと続くってなったら本当どうしようっていうのは正直ありますよね。ファッション誌とかは難しくなっているし、漫画週刊誌とかも延期して合併にしたりとか、いろんなことが起きていて。
雑誌の編集部ってかなり直接会って打ち合わせも話し合って企画が転がってたりっていうなかで、今は「指示を出す、それを受けて実行する」っていう手法が強くなったりもして、いろんな部分に変わってってる部分が出ているなっていうふうには本当に思います。
宮崎 智之:
雑誌は書籍よりも遅効性という意味では速報性がやや、新聞とかよりはあれですけど、早いところがあるから、企画をすぐ入れ替えて、この時世も含めた企画、さらにリモートで完結できるような企画にしていったっていう話ですよね。
これがあと3号、4号続いたらその企画自体が出せるかというか、端的に言ってネタ切れになってしまうっていう恐れもあるっていうことなんでしょうね。
はない ゆうた:
作れないことはないとは思うんですけど、今度はいろんな媒体が似通ってきますよね、できることが限られて。
塚越 健司:
「リモートでどういうのがいいか」みたいな特集があるとして、であとは「コロナで識者は何を考えるか」みたいな特集があるとして、その先っていうことだったりとかっていう、特集の内容っていうこともあるし。
あとはさっきからの議論になっている、どういう言葉を選定するのかが難しい。単に強い言葉を使えばいいのかっていうのは難しい。
あまりお話できなかった永田先生にもちょっとお話したいんですけど。学者としていろいろ調べたりとか、引き取ったりとか、そういうところもあると思うんです。論文書くっていうところでも、図書館が開いてないとかそういうこともあります。
永田 夏来:
そうだね。今の話聞いてて思ったこと2つあって、1つは、言葉の精度をもう少し敏感にならないといけないよね。「みんな一致団結で頑張ろう」ぐらいのテンションで戦争という言葉は多分使ってるんじゃないかなっていう気がするんですよ。それは比喩だからいいっていう考えかたはたしかにあるかもしれないけど、いろんな言葉が本来あるはずじゃないですか、そういう状況を説明する言葉ってね。
なんだけど、もう「戦争にもなっちゃう」っていう物事を捉える解像度の粗さっていうところをもうちょっと引き受けて考えないといけないんでしょねっていうことを、言葉を扱う人たちが頑張って、いいとこ見せてほしいなーっていう期待が1つですよね。
であと、コロナの話ってすごく分断されるんだなっていうのをより思いましたね、今までの話を聞いていてて。私兵庫県の山奥の大学に勤めていて、全然〔東京の〕みんなとテンション違いますよ。だって普段からソーシャル・ディスタンスを守れてる状態だもの。みんな自宅から自家用車に乗って、イオンモール行って、イオンで買い物して――イオンはあれだけどもね――そのまま車でまた帰ってくるわけだから。
そういう暮らしかたをしている人たちが考えるソーシャル・ディスタンスってものに対する感覚と、普段から満員電車に乗っている人たちが考えるような感覚はやっぱりだいぶ皮膚感覚って違うだろうなと思うんだよね。
だから引っ越しの話とかずいぶん出てて面白かったんだけど、たぶんうちの学生が聞いたら意味が分かんないよ。
海猫沢 めろん:
たぶん僕も熊本なんで、東京都との温度差がすごいです。何も変わんないし、周りの人は車で普通に移動してるし、街なかはやっぱ少ないけれど、公園には人いるし、スーパーにも人いるし。あんまり何も変わらない。
永田 夏来:
そんな感じで暮らしている地域もあるんだと思います。うちもそうですね、兵庫県の山奥だけどね。
であるにも関わらず、国としての政策は統一性を持って進められるわけじゃないですか、学校の休校であるだとか。
そういうところで出てくるそのデコボコっていうのをどうするのがいいのか。ならすのがいいのか、デコボコがあるっていうことに気付くのがいいのか。
海猫沢 めろん:
僕もそれ今回思ったのが、国家と企業と個人の関係性って、3つすごい重要で――中学のときとかにそういうの習ったはずなんだけど、普段生きてて忘れてるんだけど。今回その3つの関係性がすごい浮き彫りになってて。
個人は給料を企業からもらっているんだけど、企業はこのコロナで立ち行かなくなったときに、じゃあどうするかっていうと、国家が何とかしなきゃいけないんだけど、それもうまくいっていないっていう、その3つがうまくいっていないのがすごい浮き彫りになっていて、逆に存在が見えたって感じがしますね。こんなにもちゃんとこの3つが機能を――見えてないときは――一応なんとかはなっていたんだなと思いますね。
塚越 健司:
今めろん先生がおっしゃったみたいに、国と企業と個人の関係性の微妙なバランスだったりとかっていうのの、かなり動きが激しくなってるというか、グチャグチャになってきてるなかで再構築を求められてると思うんですけれども。
永田先生とかそのへんはどう思いますか。国・企業・個人ってかなりいろんな役割があったと思うんですけれども、今回のことでまた変わるとも――〔あるいは〕基本はもう変わらんと……。
永田 夏来:
たしかに説明をすると国と企業と個人っていう言いかたになるけど、ここしばらくの政権っていうのは企業への利益考慮が最優先でずっと国を動かしているわけだから。必ずしもバラバラっていうわけでもなかったんじゃないかなというふうには思いますよ。
なんだけど、感染症の問題が出てきたときに、経済合理性と天秤にかけなきゃいけないような新たな問題というのが出てきて、初めてその噛み合わなさぶりっていうのが出てきたっていうふうな認識なのかなとは思いますよね。
私は個人が判断するっていうようなところが伸びることを期待してしまうんだけれども、ただそれが最適解なのかどうかっていうのは分かんないな、その質問は難しいね。やっぱりどういう社会を目指すのかっていうことが先にないと決められないことかなと思うよね。
塚越 健司:
ありがとうございます。斉藤さん、どうでしょう。
斉藤 哲也:
メールを1通、さっきの話でいいのがあったので読みたかっただけなんですけど。いいですか。
ラジオネーム、サントス・サーティーンさん。「2006 年に聞き始めてから初めてメールします。Life を聞き始めたときは大都会周辺に住んでましたが、数年前から富山の過疎地で暮らしています。今回のコロナの件、過疎地から見てるといろいろ思うことがあります。例えば出てくる言葉の一つ一つが都市住民を対象としている言葉だなということです。ステイ・ホームや外出自粛。当地では家にいても外出しても人と半径 2m 以内に近付くことは1日に数えられる程度しかありません。公共交通機関もないに等しいし、接するにしても人数が知れています。なのに全国一律でのさまざまな自粛要請には何だかなと思います。2学年合わせて 10 名もいない地元の小学校は、全学年が複式学級でも休校中ですが、学校からは子どもたちは自宅待機と言われ真面目に自宅にいるようです。外に出たって不特定多数の人と接する可能性はほとんどゼロなのに、です。せめて過疎地くらいは都市部とは別のメッセージを出してほしいなと思います。全国一律のメッセージを真面目に聞いて互いに監視し合うようなことにならなくて済むように。ま、難しそうではありますが。今晩は炭焼小屋で夜通し火の番をしながら聞くつもりです。」
海猫沢 めろん:
すごい。炭焼小屋!
塚越 健司:
僕も今東京で、出演者の多くの人も東京だと思うんですけど、charlie さんにもそちらの感覚と東京との違いって話が出てきているんですけれども、どうでしょう。
charlie:
僕は兵庫県のなかでも都会に住んでいるですけれども、俺『ウェブ社会のゆくえ』って本を書いたときに、震災に絡めて書いたんですけれど、住んでいる地域の特性とかその人の心理特性とか含めて、基本的に同じように世界を見ているわけじゃないんですよ。
三宮の周辺のパチンコ屋には行列ができて、「何で行列作ってるんだ」とおじさんともめたとかっていうニュースが昨日も流れていたし、一方で阪神間っていう地域は基本的にブルジョワ、お金持ち地域なので、ソーシャル・ディスタンスを守りながらお上品にお買い物をしてまったく何の行動制限は感じないわけですよ。
一方で例えば学校みたいな市民生活の制度に関わってるところでは全員同じ教育を受けるみたいなことだったりするし、それについての評価も人によって全然違うし。「早く落ち着いてほしいなー」っていうレベルの人もいれば、「なんで外出している奴がいるんだよ」って言う大学生もいるし。
それはべつに、都会とか田舎とか、地方とか都市部とか、それだけではないし、それを多様な言葉で語ればいいっていうことではなくて、最初から多様な語りかた<しか>ないのに、政策の言葉、政治の言葉に落とし込まれていくときにデコボコが削り取られていくっていうことだと思うんです。
それをみなさんは批判的に聞かれたと思うんですけど、なんで僕それを言ってるかというと、僕自身がまさに今、大学1年生全員が取る科目を担当していて、本来であれば 20 人クラスで 20 数名の非常勤の先生がたにクラスを持ってもらう仕事なんですよ。
でもこういう状況だから、600 何十人が聞く音声講義を全部〔俺〕1人で作ることになっていて。そうすると言葉の選びかただとか設定のしかただとか、ある意味で絶対に尖れない。
例えば、聞きやすさのスピードとか、もしかすると申告はしていないけれど聴覚の障がいのある人がいるかもしれないとか、当然留学生もいるとか。あるいは Life でしゃべっているようなサブカルの単語はたぶん通じないかもしれない。岡崎体育っていう歌手が日本でいるんだけどねっていうみたいな、そういう説明を頭から心掛けてしゃべらなくてはいけない。
そういういろんな人がいるなかで、いろんな人に向けてしゃべる言葉っていうのはどうしても政治の言葉、行政の言葉、つまらない言葉になっていかざるを得ないっていうとこに立たされているんですよね。
そのことを思うと、そういう状況のなかに放り込まれたときにビビットな言葉を作っていくのも大事だと思う。大事だと思うんだけれども、やっぱり多様な人たちの多様な状況にさらされたときに、そこでその言葉に向き合っている人たちのことが僕はすごく気になるのは、具体的には例えば接客業の人たちです。
この人たちってビニールカーテン越しにいろんな人から罵声を浴びたりとか文句を言われたりとか毎日してるわけじゃない。でも、その人たちが答えられる言葉ってすごい限られてるわけ。そういう状況にある人たちの言葉っていうのを僕は自分のなかで言ってて、言えないもどかしさというか、そこではっきり自分の思っていることを言っちゃいけない辛さみたいな、そういうもののほうをやっぱり、センスが――大人になったんで俺も――やっぱりセンスがいくなと思うね。
塚越 健司:
めちゃくちゃいいこと言われちゃったんで、あんまり返しようがなくなっちゃったんですけど。いい話だなと思って、ほんとにそうだなと思って。
時間がそろそろいい時間になってきてるんですけれども、このパートであんまりお話触れなかった人にお話を振ってそろそろかなと思うんですけど、速水さん、すいません。このパートでいろいろお話できましたし、今日全体でもいいんですけれども、「ここ言い足りなかった」とか、これっていうのがあったらぜひ言っていただきたいですね。お願いします。
速水 健朗:
特にないです。
塚越 健司:
分かりました。ありがとうございます。すっきりするのもいいことです。
野村さんも、このパートあんまりお話振れなかったので、今日 Life 初登場でいろんなお話ずっとされてたと思うんですけれども、どうでしょう、今日。
野村 高文:
そうですね、最後ですか、私。
塚越 健司:
もうちょっとありますんで、大丈夫です。
野村 高文:
あんまりいいことは言えないんですけど、私もさっき住む場所みたいな話題をぶっこんでしまったんですけど、本編の最後にも言ったんですけど、これってほんとに全員が自分の生活にもろに影響してくるトピック――なかなかそんなトピックってほんとに発生しないなっていうことなので、「これが正義だ」ってことは絶対に言えないですし。
こういうふうに思う人がいるってことを意見を目にしたら、その人はそこで困ってるんだろうなっていうのを1個1個考えながら、自分の困ってるところとの落とし所っていうか、手が握れるところを探すみたいなことが、今後必要なんだろうなってのは、すごい聞いてて思いました。
塚越 健司:
はい、ありがとうございます。今回のコロナで困ってない人っていないと思うんですよね。全員何かしらで困ってるってことがあって、charlie さんがおっしゃったように今スーパーマーケットとかで働いてらっしゃるかたはほんとにいろんな意味で大変なところもあって、誰しもがいろんなものを抱えていて、それに明確な答えが今ない状況っていうのが、現在進行形でやっていて。
まさに今日の本編もそうだし、外伝もこういうやり方で繋いでというのは初めてだったので、そういう意味では試行錯誤がずっとあったと思ったりしてるんですよね。
それで、良いとこも悪いとこもいろいろあったと思うんですけども、これも含めて私たち自身もこの番組としても一つのやり方を模索しながら自分ごととしてみんなでなんとかやるっていうだなあって思います。
charlie:
すばらしい。すばらしい締めですね。
塚越 健司:
個人的にはものすごく後悔が残るっていうかね、あんまりうまいことできなくて、あれだなってのがあって。
あと、斉藤さんのほうから本のプレゼントもお願いしたいと思います。
斉藤 哲也:
はい。『もっと試験に出る哲学』の当選者3名ですけれども、1人目は文京区のタシロさん、おめでとうございます。
2人目はラジオネーム・オリオン座さんです。オリオン座さん、メッセージも来ていて、「今在宅勤務ですけど、うちの会社はエンターテイメント関連で再開未定の売上ゼロです。再開後も今までどおりにはいかない懸念があり時代の変わり目に立ち会ってる気がします。」ということで、頑張ってください。
3人目がですね、ラジオネーム・ペンギンスターさん。ということで、ちゃんとお送りしますのでどうもありがとうございます。
塚越 健司:
お送りしていただいたかたがたも、ありがとうございます。
あと、僕も1つ感じたのは、今日は外伝の司会っていうことでちょっと司会をやったんですけれども、「やばえ、くそ難しい」っていうことを実感してですね、ちょっと反省すること多かったんですけど。
聞いてるかたがたもちょっと覚えてほしいんですけど、charlie さんと速水さん、マジぱねぇぞ! つえーぞ。毎回やべえぞ。すげーはこれ。そんな簡単にできねえ。
俺は「あ、どうしよう」と思いながら「あ、この人、次に振らなきゃ」で頭いっぱいで、グチャってなってた。
だから、いつもメインパーソナリティーのかたがた、サブパーソナリティ―のかたがた、すごいなと思いながら、私もまだまだですけれども、頑張ろうと思ってますので。今日のやり方でまたいろんなことを頑張りたいと思いますので。
こんな時間まで、あるいはラジオ・クラウドと聞いてくださって、本当にありがとうございますということで、みなさんに人数が多いので一言振るってのはもう時間的に難しいと思うので、このへんで締めさせていただければと思いますが。charlie さん、何かありますか 。
charlie:
塚越、指パッチン期待されてるぞ。
宮崎 智之、永田 夏来:
見たい見たい。
charlie:
最後の締め、預けたからよろしく。
塚越 健司:
分かりました。じゃあ、カスってなるか、カチってなるかは、ちょっとみなさん、あれにしましょうね。ということで、次回の放送が、すいません。いつになるとかはまだちょっと……。
黒幕:
一応予定としては6月 28 日(日)深夜 25 時からの予定ですが、こういう情勢なので何があるか分かりませんが、たぶんそこでやると思います。
塚越 健司:
分かりました。またいろいろあると思います。NewsPicks さんと今回からまた新しい試みをしているので、今後も聞いていただければと思います。
ちょっと緊張していますけれども、本日の放送はこれですべて終わりということで、「文化系トークラジオ Life」、『コロナ下の「新・日常」を生きる』というテーマでお送りしました。
出演者のみなさんもスタッフのみなさんも、お聞きくださったみなさんも、長時間まことにありがとうございました。ということで、次回もよろしくお願いします。ということで、終わりです。
〔外伝 Part 3 はここまで〕