出演者(登場順)
・塚越 健司(つかごし けんじ)
・宮崎 智之(みやざき ともゆき)
・倉本 さおり(くらもと さおり)
・はない ゆうた
・海猫沢 めろん(うみねこざわ めろん)
・神里 達博(かみさと たつひろ)
・鈴木 謙介(charlie、チャーリー、すずき けんすけ)
・永田 夏来(ながた なつき)
・野村 高文(のむら たかふみ)
・速水 健朗(はやみず けんろう)
・斉藤 哲也(さいとう てつや)
・長谷川 裕(黒幕、はせがわ ひろし)

* * *

塚越 健司:
文化系トークラジオ Life、本日は 2020 年5月3日――明けて4日ですけれども――の本放送を終えて、これからは外伝の収録となります。

本日は『コロナ下の「新・日常」を生きる』というテーマで、このコロナについてさまざまな話をするという回だったんですけれども。

申し遅れました。外伝のほうの司会をします、Life によく出させてもらってます、塚越健司です。よろしくお願いします。

本放送も人数をかなり――赤坂では――絞ってですね、そこから電話だったりとかリモートだったり、いろんな方法でいろんな人を繋げているわけなんですけれども、こちら外伝もすべてリモート・ワークになっていて、私も自宅から放送しておりまして、他のかたがたも自宅だったり今本放送を終えた人たちもみなさん集結しているというところです。

本放送でも出たかたが何人かいらっしゃって、このまま引き続いて参加されてらっしゃるんですけれども、この外伝から出演されるかたに一言挨拶していただきたいと思います。

まずはライターの宮崎さんです。はい、お願いします。

宮崎 智之:
どうもこんばんは、というか、おはようございます。結構深い時間までみなさん聞いていただいてくれるかたがたくさんいて嬉しいですね。

塚越 健司:
ありがとうございます。

宮崎 智之:
外伝も張り切っていきたいと思います。よろしくお願いします。

塚越 健司:
はい、もうひとかたがですね、書評家の倉本さおりさんです。倉本さんはいらっしゃいますか。

倉本 さおり:
どうも、書評家の倉本さおりです。よろしくお願いします。

塚越 健司:
はい、よろしくお願いします。倉本さんも今日もいらっしゃって、またのちほど〔書評系たたき売りラジオ〕Banana、していただきたいかなと思います。

倉本 さおり:
はい、Banana します、Banana。

塚越 健司:
はい、あとは編集者、はないゆうたさんです。よろしくお願いします。

はない ゆうた:
はい、ケトルのはないです。よろしくお願いします。

塚越 健司:
はい、よろしくお願いします。のちほど雑誌の話とかお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。

ということで、このまま――

海猫沢 めろん:
あ、めろんです!

塚越 健司:
あ、めろん先生、めろん先生。そうですね。めろん先生、どちらにいらっしゃいますか。

僕のほうが画像がちょっと見れないんですけど、今日も絶賛、背景の画像が違うということで、めろんさん。

海猫沢 めろん:
美少女になってます。

塚越 健司:
はい、美少女になって出ていただいてます。ああ、僕も〔映像が〕見えました。最高の美少女で。ウィンクしてますね。かわいい。

ということで。あと charlie さんと速水さんと、本放送に出られたかたもいらっしゃって。あと、神里さんにも引き続き出ていただいています。千葉大学教授で科学史技術社会論がご専門の神里達博さんです。よろしくお願いします。

神里 達博:
どうも、よろしくお願いします。

塚越 健司:
よろしくお願いします。本放送の最後、結構熱い議論をしていただいて、そのまま、ちょっと、時間的な感じで切れてしまったんですけれども。

改めてですね、神里さんの話をお聞きしたいんですけれども。やっぱり、3.11 の頃には、いわゆる一枚岩であったわけですけど、今お医者さんと言われてる人たちのなかでもかなり広がりがたくさんあって、そこがいろんな意味でごちゃごちゃになってるってことなんですけれども。

2020 年代の科学コミュニケーションっていう点で考えると、何が問題でどういうとこに課題があるのか、ちょっと重複するところがあると思うんですけど、もう1回お話いただいていいですか。

神里 達博:
そうですね、病気の問題だったので第一義的にはお医者さんとか公衆衛生の先生たちに聞けば政策を決めることができるだろうと思っていたと。

でもお医者さんってのは自分で――こういう言いかたをすると怒られるかもしないんですけど――お医者さんって科学的なコミュニケーションのプロだと思ってるんですよ、みんな。なんでかって言うと、患者さんと毎日コミュニケーションしてるから、自分は一般の人と専門的な話をすることが上手だと思ってるかたが多いんだと思います。

だけど、目の前にいる患者さんに病気の話をするのと、社会全体に対して公衆衛生的な議論をするのと、全然レベルの違う話です。

しかし、とにかく緊急事態なのでいろんな先生が駆り出されて、いろんなことを言うと。しかしそれが私たちにとって必ずしも分かりやすいかというと、そうでもないわけですね。じゃあ、分かりやすくしなきゃいけないと思って一生懸命分かりやすい言葉を使おうとするんだけども、それが今度は誤解を生む原因になったり、いろんなことが起こってるかなと、そんなふうに見てます。

塚越 健司:
はい、ありがとうございます。本放送でお話しされてたと思うんですけど、charlie さんと速水さんもいらっしゃいます。どちらかにコメントいただきたいんですけど。charlie さん、すいません、お願いします。

charlie:
やっぱり、コミュニケーションの問題だというふうに実質的にはすごく思うんですけど、それ以上に僕たちがコミュニケーションのなかで慣れてないトピックだなあと思うんですよね。

要するに例えば、経済で人が死ぬほうが困るじゃないかって言うことはできるんだけれども、それだけで例えば高齢のかたに「コロナに関わるリスクは高まるけど死んでください」って言う人はいないわけで。

シビアな選択を突き付けられているときに、こういう場でどういうコミュニケーションをとったらいいのかっていうのが、そもそもすり合わせだとか――今日組織論の話が前半にありましたけれど――気持ちをすり合わせていくコミュニケーションに慣れている僕たちには、こういうシビアな、誰かが損をしなければいけない話ってのは一番しにくい話なんだろうなっていう気がするんですよね。

塚越 健司:
そうなんですよね。そのへんのすり合わせっていうものだったり乖離しているものがあって、議論になっているのかなと思います。

あと、外伝で参加されてるかたで引き続き永田夏来先生もいらっしゃいます。

永田 夏来:
はいはいはい、いますよ。コミュニケーションの話? それってでも震災のときもそうだったでしょ。今まで常に専門家っていうのはやっぱりすごく狭い領域のことをきちんと分かるっていうことが前提であって、だからこそ専門家なわけで。なんだけども、今回のコロナの場合には状況が分かんないわけだから。エビデンスもないし、前例もないし。どうしたらいいのか分かんないっていうところに政治が発生してくるんだと思うんだけれども。でもそういう状況ってべつに今に始まったわけじゃないんですよね。

私今回のコロナの件はもちろんコロナ固有の問題はたくさんあると思うけど、やっぱ今までに散々積み残してきた事柄がいよいよにっちもさっちもいかなくて、ワッて出てきたんだなっていうふうに捉えているので。

今回のことを通じて、いよいよ変えるとすると「どこから変えるんだろう」っていうふうな視点で見ていけば、次の社会を展望するっていうことができるようになるんじゃないかなと思うんだよね、うん。

塚越 健司:
ありがとうございます。あと今こちらの外伝に参加されてるのが、斉藤哲也さんと、NewsPicks の野村高文さんもいらっしゃいます。

野村さんも、すいません、一言いただけると嬉しいです。

野村 高文:
そうですね。積み残したことがワッて出てきてるっていうのはまさしくおっしゃる通りだなと思ってまして。結構コロナ後にいろんな起業家に取材をしたんですけど、結構2通りに分かれるんですね、反応が。

一方では本当に今はとにかく固く固く、もう閉ざすしかないと。とにかくもうキャッシュアウトを防ぐために、新しいことはやらない、っていうところで、とにかく出血を止めるっていうふうなタイプのかたが1パターン。

でもう一方は結構今の永田先生の、「緊急度は低かったんだけど重要度が高いこと」っていっぱいあって、それがやれるいい機会なんじゃないかっていうようなことをおっしゃっているかたが結構いらっしゃいますね。

それって今まで見て見ぬふりをしてきたとか、他に喫緊の課題がいっぱいあったからそこには手が回ってなかったと思うんですけど、それがコロナを機にやんなきゃいけないよってなってんのかなと思ってるんですね。

ちなみに後者を言ってた1人が、本田圭佑さんでしたね。起業家・本田圭佑さんにこの前取材したんだけど、そういう口ぶりで語ってらっしゃいました。

塚越 健司:
charlie さん、どうですか。

charlie:
積み残しにしていたことを今始めるたるタイミングだってのも2通りあると思っていて、今僕らがやってるオンライン授業なんかが典型的ですけど、薄々「やらなきゃなー」とは思ってた。

塚越 健司:
たしかに。

charlie:
薄々「やらなきゃいけない」とは思ってたけど緊急度は低かったみたいな。でも緊急にやらなきゃいけなくなったってパターンの人と、これを機に自分のホームの領域というか、「ここをこれからやっていくぞ」っていうところに打って出るチャンスみたいなタイプの人がいて。

そういうパッシブな受動的な形でこのタイミングでっていう人と、積極的な人とでまた見方が違いますよね。9月入学とかね。

塚越 健司:
そうですね、それはたしかにありますね。

リモート、遠隔授業って私も〔大学教員として〕準備をしているところなんですけれども、実際に前からできたはずで、しかもやってたらずいぶんいろんなことが効率的になってたと思うんです、全部変えなくても。

普段の生活のなかでもリモート入れたほうが今になってみると、こっちのほうが楽だったなって部分があったと思うんですけど。

おっしゃる通り、重要度が喫緊じゃない限りやらなくて、今ここぞとばかりに一気に変えようっていうタイプの人たちと、それは無理だっていうところの――争いって言ったらあれですけれども――そういうところの難しさってあるのかなと思うんですよね。

この点、速水さん、お考えを聞かせていただけると嬉しいです。

速水 健朗:
ちょっと神里さんの話がちょっと前提で始まってる話なので〔そこに話を戻そうと思います〕。

いわゆる幅を広げる専門家を選んでっていうところって、一つメディアも僕らが役割としてあるんだけど、3.11、震災のときにやばい人たち――メディア人も含めて――ある程度あぶり出して、「こういう人たちがいて、じゃあ、正しい議論をする人たち、誰なの?」っていう、選択することって当時でも無理だったんだけど、今専門家としてしゃべってる人たちに、社会学者を加えますって言ったときに、みなさんがおそらく「こいつ?」っていう人たちが選ばれていくことしかもう想像できないわけじゃないですか。僕が神里さんの話で今日もっと、司会として時間があればしたかった話、そこかなと思っていて。

自分たち、ある程度こういう番組とかメディアとかって、専門家とコミュニケーションする場所で、誰がこういう意見で、今の話でいうと、変えるべき変えないべきみたいな話っていうのを、日常から意見というのを、こういうふうに出していくべきとか、報道ってやるべきなんだけど、それどんどんやればやるほど報道に偏っていく専門家が間違っていることにもなってるわけじゃないですかみたいなことを、これ誰が審議すればいいんですか。

塚越 健司:
審議、そこは難しいですね。神里さん、すいません。どうでしょう。

神里 達博:
それも非常におっしゃる通り難しい問題です。ただですね、結局誰が専門家なのかっていう問いなんですよね。

例えばテレビでも役所の審議会でも同じなんですけど、「専門家です」って出てきますよね。それは誰かが選んでるわけですよ。誰かが呼んできてる。何かを根拠に呼んできてるんだけど、その根拠っていうものが今までずっといらなかったんですよね。

昔は一番簡単で、東大の先生を連れていけば問題が解決したんですね、何でも。それはテレビであろうが、審議会だろうと解決した。権威ってものがすごく大きくあって、その権威のパワーによってだいたいの問題が解決できていた。そういう幸せな時代が結構長かったんですけども、そのへんにメディアも政治も慣れちゃってるってことがあると思うんですね。

ところがその研究者のみなさん、ご存知の通りに、この研究者っていろいろあるよねって言うんだけど、でもそれは結構その研究者自身が持ってるイデオロギー性みたいなところがあるから、ある人から見るとこの人ってインチキだよねって言ってる人が、ある人はその逆がインチキだよねって言い合うような形に今なってて。

単純な右とか左とかっていうことを超えた、細かな政治性みたいなものが非常に専門的な知識というものと結び付いてるんですよね。

例えば――あんまりこういう話も大変なんだけど――ワクチンの問題っていうのは、私たち今、新しいワクチンがほしいって言ってるんだけど、ワクチンの問題の本質ってのは、もっと前に私たちの社会ではワクチンそのものの安全性って問題がずっとあったわけね。

で、副作用が出てひどいことになりました、だからワクチンは悪いのです、少なくともワクチンを打つのは自己決定にすべきだ、みたいなそういう流れが結構あったなかでの今回これが起こってるとかいうこともあって。ワクチン・反ワクチンみたいな、あるいはワクチン慎重派とプロワクチンの人っていうのがお医者さんの世界にもあって、それの緊張感というのが実はだまし絵のように重なってたりもするんですね。

何を言いたいかというと、さまざまなイデオロギー性があって、専門家も決してまずニュートラルで大丈夫な専門家ってのがいて、あとはそうじゃないインチキな専門家がいて、なんていう簡単な話じゃないっていうことをメディアも政治家も理解する必要があるんですね。

じゃあ、どういうふうにそういう問題に関して日本以外のとこでやってきたかっていうと、例えばこの種の問題でやっぱり先進国はアメリカなんですね。アメリカは常にそういう政治と学問がですね、分離できないという前提で特に公のこういうパブリック・ヘルスの問題とかですね、あるいはリスクの問題とかってのは完全にそうなるから、もうこれは諦めます。どう諦めるかっていうと、「こんなやつを審議会の委員にしてますよ」っていうのを完全に書き尽くすんです。

例えば、あるお医者さんはタバコ関係の会社からたくさん研究費をもらってました、親族がこんなことやってます、でも研究者としてはこんなことをやってます、「ネイチャー」にも「サイエンス」にも論文載ってます、みたいなそういうその人のいろんなことを書いちゃうんですね。書いちゃったものを「ノミネーション・パッケージ」って言って、審議会の委員にするときに全部公開するんです。で、誰でも見ることができるわけ。

とりあえず選ぶ人はもちろんいて選ぶんだけど、そのときには何とかそのなかでバランスを取るように頑張って選ぶんだけれども、それは絶対に正解はないという前提でそれを社会に投げ返すわけ、専門家の集団が。

一応社会の側からも、もちろん議会が文句を言うこともあるし、役所が文句を言うこともあるし、企業も文句を言うこともあるし、市民団体が文句を言うこともあるし、NPO が言うこともあるし、そういう形で研究者というものを、常にまな板に乗せてみんなでいじくるのよ。それでそういう文化がアメリカにあるわけ。

だけど日本はもっとナイーブになっちゃってるから、偉い先生がいて正しいこと言ってくれるんじゃないかっていう幻想がまだ残っている。それはコストとしては安いんだけども、これからはもう、できる時代じゃないんだっていうことをみんなが認識する必要があるんじゃないか。

charlie:
神里さん神里さん、今の話でいくと、アメリカは科学のそのさらに土台に民主主義があって、みんなで決めましょうっていうふうに投げ返せると。少なくとも日本は、あるいはアジア圏共通かもしれないけれども、権威が決めてほしいと。でもヨーロッパとかの場合であれば、もうちょっと大きな政府がわりと引き取って、みたいなところもあると思うんですけども。

このしばらくの間のコミュニケーションのなかで、今日科学者のコミュニケーションの話をしてますけども、科学者と連携する政治家のなかでもうまい人とそうじゃない人とやっぱいるじゃないですか。そのへんの評価、例えば女性の政治家が先頭に立ってるところは市民とのコミュニケーションがうまいとかって話ありますけど、そのへんについての評価はどういうふうに考えていらっしゃいます?

神里 達博:
最初の話でアメリカは土台に民主主義があって、アジアは権威主義があって、ヨーロッパだと間みたいなところをとる面がある。そんな話をされてたと思うんですけど、それは当然それぞれの国柄みたいなところで落ち着かせかたは違うと思うんですね、もちろん。

いずれにせよ科学と政治の関係っていうのは、行くところまでかなりどんどん行ってしまうんじゃないかなというのが私の予想で。今一見例えば中国なんかは権威主義でうまくやってるように見えるけれども、いずれは損得の話と絡んでくるわけですから、みんな黙ってるとは思えないんですよね。そうすると、科学の顔をして政治をやる人が出てきたり、政治の顔をして科学をやる人がでてきたり、どうしても出てくるんだろうということは思います。

だから――ちょっとアメリカ人みたいなことを言うけど――だんだんアメリカみたいになるんじゃないかなってのは私の予想ではありますけど。

塚越 健司:
要するに、オープン性っていうものは特にアメリカでは政治家のバックグラウンドも全部見せるって話だと思うんですけれども、日本の場合は公共性について話すとき一階、二階とかって言いますけど、一度「こういう専門家会議します」っていう、誰にでも分かる形のオープン性が一階のレベルであるんですけど、実はそこには専門家を選ぶっていうプロセスにおいては一般に公開されてない二階に誰か人たちがいて選んでいるっていうそういう建て付けなんだと思うんですよね。

ただそこだと、その二階っていうものの正当性がよく分からないから、それで今問題になってるから、そこも引きずり落としてもっとオープンにしていこうっていう点だったりすると思うんですけれども。

永田さんから今のこの科学コミュニケーションの全体の話を聞いて、思ってるところをお聞きしたいんですけど、どうでしょう。

永田 夏来:
あのね、2つありますね。まず1つはこれが日本人だからだか何だか分からないけれど、今のところそういう、合理的に引き受けて個人が判断するっていうことをやれてないでしょ、日本の社会って。

だから例えばアメリカ的なオープンな情報が仮にあったとして、結局それを誰かに精査してもらって声の大きな人に――ホリエモンとかに――決めてもらって、そういうオピニオン・リーダーにくっついていくっていう形で判断が誰かにまた移譲されるだけで。

オープンにしていくっていうことが情報の解決になるのかどうかっていうこと自体がちょっと疑わしいっていうところを考えたいかなっていうのが1つです。

もう1つが、専門知に対する信頼っていうのが個人崇拝になってるんだよね。だから、この先生が言うことだったら信用できるでしょうっていう基準で考えてる限りにおいては、科学的に正しい選択ってできないと思うんですよ。

だって、その話っていうのは日々変わっていくわけなんだから、論文はどんどん出されていくわけだから。結局協議して、「じゃあ現時点での正解はこれかな」っていうふうに話を進めていくしかないわけで。誰かがずっと最先端でい続けるとか正しい判断し続けるとかって、ないわけですよね。

そういう状況の複雑さっていうことをきちんと考えないといけないにも関わらず、だいぶ手前のところで止まってるっていうところが結構危ういと思ってて。

charlie:
永田さん永田さん、今日の放送の前半戦ってわりと組織論の話をしていて、要するに Zoom で会議はできるかみたいな話だったと思うんですけれども。

個人的に思っていることとして、人に属人的でないコミュニケーションをするときの一つのルールは、アジェンダを決めて賛成か反対かに分かれてディベートしましょうっていう、そういう基礎的なディベートの訓練ってありますよね。こういうときにはどういう立場の、どういう文脈の人かってことを問わずに発言だけで評価しなさいっていうことになっていると。

でも僕らが Zoom とかオンラインの話でしてたのは、どうやってそこに乗っかっていかない気持ちをすり合わせていくかみたいな話をずっとしてて。

要するに僕らのコミュニケーションは、成長したらオープンにコミュニケーションできるとかじゃなくて、最初から文脈とか人柄とか、「そこまで見せてくれよ」みたいなふうになっていないだろうか。例えば、選挙番組だって、実はアイドルが好きとかそういう情報出すじゃないですか。

そうなっている状況のなかで科学的なコミュニケーションで何かをアップデートして合理的に決めようっていうゴールの立てかたから、そもそも無理なんじゃないかって気がしてきたんですけど。

永田 夏来:
切り分けじゃない? だって最終的には民主主義なわけだから、みんなが納得感があるかどうかっていうところだと私は思うんですよね。みんながなんとなく、「まあまあ、やむを得ないか、じゃあその線で」と思えるところまで熟議が尽くせているかどうかっていうことだと思うんですよ。

だけど今は人格崇拝みたいなところに丸投げにしてしまっているから、偉い人が来て「まあまあ、ここは俺の顔を立てて」とか言ったら、そういう空気で話が通っちゃうわけでしょ。

charlie:
それは「寄り合い」ですよね。宮本常一が言う寄り合いで、いわゆる合意・コンセンサスと、寄り合いの「何となくふんわりみんなで納得した」はやっぱり違うじゃないですか。

永田 夏来:
だと思います。だから私結構 Zoom を嫌いじゃないのは、みんなもうちょっとアジェンダしっかり立てて、マイルストーンに沿って物事決めるっていうことをもっとやっていいと思うんですよ、ある程度の部分に関してはね。まあそればっかりだとまた違う問題出てくると思うけど。

IT 系とか外資系とかはやたらそれやってて、でも全然やってないところはまったくやってないわけだから、それはもう少し Zoom なりなんなりでリモートしていって、合理的に判断していくっていうことに慣れていくっていうのは、ポスト・コロナの社会でちょっと期待できるとこかなとは思うよね。

塚越 健司:
本放送でも話してましたけど、Zoom とかだと全員一覧でタイルになって横になるので、そういう意味では社長だろうがなんだろうが全員同じ位置でしゃべるから、そのへんが鍛えられるっていう点。これはオンラインでやってみたことの一つのプラスな価値だって捉えることができますよね。

神里さんにお聞きしたいんですけれど、今のようなオンラインを使うっていう技術環境の変容によって私たちの行動、考えかたが変わるきっかけになるっていう論点、いかがでしょうか。

神里 達博:
それはもちろん、いろいろともうすでに起こってるというか、そのへんの話はそれこそ 50 年くらい前からカリフォルニアのアメリカ人たちはすごくやりたかったことですよね。それがずっといろんな形で何度も――そりゃもう塚越さんの専門だけど――何度も何度も波が来て、ある種コロナっていうのはそれを完全に実現するような契機になるんじゃないかなっていう気が僕はしますけどね。

だからそれはもちろん良い面悪い面あるのは、カリフォルニア・イデオロギーの良い面悪い面とまったく重なるような気がして。今日も「みなさんは Zoom で仕事ができるような虚業だからやってられるんだ」みたいなことを〔リスナーのメッセージで〕言われましたけれども、そこの問題がものすごくこれからヤバいですよね。いろんな言葉でこれから表現されるようになると思いますけど、とてつもない格差とか分断をこの世界に作る――ほんとは前からあったんだけど。

カリフォルニア・イデオロギーの当然の帰結が現実のものにコロナによってなるっていうのは、ものすごく私は危機感をやっぱり持ちますよね。

これをどうやってやっていくんだっていうのは、それこそ charlie の専門だけど、ちょっと前まで CD とかデジタル化された音楽のデータとかをみんなで配信するようになって、そっちにお金が行くようになっちゃって。普通にCD 売っても儲からなくなったんで、身体性を売るような形でのライブがすごく注目されて、身体性を買いに行くアイドルとしての AKB が出て、みたいなことですよね。

ところがその身体性を媒介するものが根こそぎ潰されるのがこのコロナなので、今まで何とかカリフォルニア的なものに対して対抗しようと思って頑張ってきた運動――僕なんか AKB はそう捉えてるんだけど――それが根絶やしにされたあとどうするんだか、まだ全然見えていないというような。

charlie:
夏来先輩案件ですよ。

永田 夏来:
ハハハハハ、コト消費案件来ましたね。

でも、どうなのかな。ちょっと難しいよね。あんまりコロナに対してどれぐらい期待していいのか分からないところがあるんですよね。

だって震災もすごい大きな経験だったけれども、ある種の人たちは喉元過ぎて忘れてると思いますよ。だからそれが経済にダイレクトに関わることによって経済的格差が開いていくとか働きかたが変わるとかっていうことは予想し得るんだけれども、エンターテイメントに対してどれぐらいの影響力を持ち続けるのかってかなり難しいかなとは思いますよね。

逆に私 charlie にそのへん聞きたいもん。ガラッと変わるかね、これでみんなもうコト消費諦めるかね?

charlie:
僕は基本的に変わらない側だと思っていて、他の人も意見があるところだと思うんですけど、参考になるのはやっぱり環境問題だと思っていて。我慢で人は動かないんですよ。

我慢せずにスマートに環境を守れるっていうと、「ストローが紙になって」は許せるんだけど、何かしたいと思ってたけど「我慢しなさい」と言われると絶対我慢しないよね、人はね。

一時的には自粛しようとか、そういう感じになるけれども、今だってこのゴールデンウィークの人出とか報道されてますけど、ものすごい勢いで抑圧されているわけですよ。

一般的には社会学ではアノミーっていう概念があって、要は、できると思っていたことを無理やりできなくされちゃうとアノミー状態――どうしていいかわからない状態――に陥るのね。今本当にそういう状態なので、これ蓋がちょっとでも開いたら一気に全部解禁だっていうふうにもなりかねないぐらいにみんなが今我慢している。

「我慢しなきゃいけないこと」――例えばソーシャル・ディスタンシングだとか――と、「我慢しなきゃいけない、でも我慢したくないこと」のバランスを誰かが作らなきゃいけなくて。で、誰が作るんだろうって思ったときに、先に夏来先輩案件って言ったのは、やっぱりエンタメの送り手の側の人たちがそこには一生懸命考えてるんじゃないかなと思うんですね。

アイドルさんがチェキを売ってお金稼いだりするのとかもそうだし、無観客ライブ配信したりだとか。最近だと自宅から5人とかでセッションして、オンライン・セッション・ライブ動画みたいなのを上げてるじゃないですか。

ああやって少しずつ少しずつ工夫しながら、我慢しなきゃいけないところと我慢したくないところの間にイノベーションを起こしていくというか――いい言いかたをするとね。そういうことを何か必死でみんな考えようとしてるだろうなっていうふうに思うので。

元に戻るかどうか分かんないけれども、少なくとも全部ダメになるとか、それが全部ガラッと風景が変わっちゃうとか、それはなかなか難しいんじゃないかなと僕は思ってますけどね。

塚越 健司:
最近ちょっと見たら、いわゆる握手会の代わりに Zoom みたいなものを使って 1000 円、 2000 円で2、3分しゃべれるっていう、握手ではないけれど握手の代替にちょっと時間を長くしてっていうのは、身体性の観点から見るとどうか分からないけれども、1つの試行錯誤の結果であって。

それがエンタメが0になるか 100 かのどっちかではなくて、たぶんそういうふうに緩やかにしか、まあそうじゃないと変わっていけないっていう部分もあるし――。

charlie:
1個あるとすれば、去年言っていた話の延長なんだけど、需給バランスなんですよ。要するに、密なところに何万人も入れてライブするのは無理だと。というわけで、めちゃめちゃお布施を積んだ 100 人ぐらいだけが1万人規模のホールでライブ見れるみたいな。

結局エンタメの本来の需給バランスを何とかこう乗り越えようとしたところで、客を入れるってのをやっていきたいのだけれど、薄く広くお客さんを取れるところはサブスクとかで世界中にお客さんを作って、YouTube とかで世界中に見せて――今日も宇多田ヒカルがインスタライブとかやってたけど、イギリスから――、そういう手段で薄く繋がるところと、めちゃ密に濃厚接触するところでごく少数みたいな。たぶんそういう二層化は避けられねえだろうなという気はしてる。

塚越 健司:
このテーマ、結構長くなってきたのでそろそろ、このへんで議論尽きないと思ってるんですけど。

やっぱり一つは、このコロナっていうのがどのくらいの――震災のときも大変でしたけれど――、コロナは期間がどのくら長くなるのかっていうのは一つあって、それによってどういうふうに変わっていくかって、10 年経ってから見たときにはあると思うのと、あと今みなさんおっしゃったように、急激に一気に変わるっていうことはあんまり考えないほうがいい――もちろんそうすると副作用もいっぱい出てくるから。少しずつ時間を掛けたものになると思うんですけれども。

ちょっとこのテーマ、最後にコメントあったら神里さんからいただきたいんですけれども、いかがでしょうか。

神里 達博:
今みなさんがおっしゃってたことに私はまったく反論なくて、間にイノベーションを作っていくっていう流れがこれから起こるのは間違いないだろうと思います。

そのなかで私一つ思うのが、ロボットの活用が出てくるんだろうなと思います。ロボティックスですね。つまり身体の代理人、エージェントとしてロボットっていうのはあるわけですから、AI 化された世界のなかでの、ロボティックス・プラスっていう方向に――セクシュアリティーみたいなのとロボットが結びつく方向ってのは今はもう動いちゃってるけど――そういうようなものがどんどん出てくるのかなと。いろんな形があると思うんですけれど、それがまた社会的な議論を呼び起こし、みたいなことが起こってる。

あと一つ思うのが、日本は患者さんの数が少ないし、死者の数が少ないんですよ。だからコロナのショックっていうものの重さが軽く感じられる社会にあるのは間違いなくて。ヨーロッパやアメリカの衝撃はデカいので、そういう意味では抜本的なことを変えざるを得ないと思ってる人は多い気がするんですね。

それに対して日本は「まあ、ちょっと〔外に〕出ちゃってもいいかな」って言い出す奴がこれから出てきて――実際その出てきたりして――そうすると一回〔感染者数が〕落ちてもまた秋ぐらいに増えちゃうわけですよね。そうやって上がったり下がったりを繰り返して、「やっぱりマズいかな」とかですね――どういうコミュニケーションになるかに依ると思うんですけれど。そういうことを繰り返しながら、だんだんだんだん新しい時代にみんなが諦めていく面と、頭を切り替えていく面――患者さんの数とか、どのくらいの周期で実際に動くかって、科学的にも分からないところがあるから何とも言えないですけど。

ただ、この病気――繰り返しになるけれど――何年も掛かりますよ。ワクチンワクチンって言ってるけど、私の調べてる範囲で無理です。全然無理です、しばらく。だからそうすると相当時間が掛かっちゃうので、そういう意味では日本でもあまり罹(かか)らないのなぜだといろんな噂もありますけど、それはともかくインパクトとしては 3.11 とか 9.11 とかを超えるものになると私は感じている。そんな感じです。

塚越 健司:
ありがとうございます。ロボティックスの話とか、またいつか番組でやりたいなんて話をたくさんしていただいて、大変ありがたいんですけれども。

外伝の Part 1 の収録、長くなっちゃった申し訳ないんですけど、伸びたのでここまでにして、次からはまたいろんな話をしていきたいと思いますので、外伝収録 Part 1はここまでにします。

〔外伝 Part 1 はここまで〕